30日分なので半分に分けますた。
十六日目
今日からは楽になると、オレは確実に思い込んでいた。何しろ出現する敵のランクが丸々ひとつ落ちる地域に入るのだ。それゆえに、オレは昨日までを何とか踏ん張れば今日から訓練に時間を費やすことが出来ると思っていたのだ。
「で……コレは一体ナンだ?」
「ボクに聞かないでよ~。」
眉根を寄せてメイリーがオレに反論する。まぁ確かにメイリーが今日の相手を決めている訳ではない──当然のことだが。そんな訳で、メイリーの不服そうな顔は至極妥当なものだといえた。
「……くまが二つ見えるのは気のせいか?」
「知らないってば~。」
何かの間違いだというオレの朝霧よりも儚い期待は、メイリーの不機嫌そうな声によってあっさりと潰えた。オレは溜め息を大きく吐いてもう一度、何かの苦行の最中であるかのように、強大な精神力を振り絞って手元の紙に目を落とす。その小さな紙きれ──今日の相手を告げる指示書なのだが──には、はっきりと今日の相手が書かれていた。
くまくま新体操部員…………。
……………………。
シッカリ見ろオレッ!コレが現実だッ!!
危うく逃避して目を逸らしそうになる自分を叱咤して、さらに──ある種恨みがましく──オレは指示書を睨みつける。だが、当然のことながら一行減るのはもちろんのこと、名前が変わるようなこともなかった。
「マイッタねェ……。」
今日からは楽が出来ると高をくくっていた。というか、一昨日と昨日の戦闘でオレもメイリーも限界だ。オレに至っては毎日ブッ倒れながらも何とか戦っているのだ。正直昨日の戦闘などは勝ったのが不思議なくらいだった。メイリーもオレも、訓練や部活動の時間をほとんど潰してひたすら身体を休め、傷を癒すことに専念してこれだ。僅かずつ能力の訓練は行っているものの、現状ではそれによって急に戦闘が楽になるようなことは有り得ない。つまり、今日も昨日と同じように──イヤ、敵が多い分昨日よりもさらに──厳しい戦闘が待ち受けているということだった。
「……今日も勝ちに行くの……?」
明らかに勝てないと分かっていれば、その次の日からの勝ちに貢献するように少しでも訓練する、という案はある。メイリーはそうしないのかと確認しているのだ。至極妥当な、そして建設的な意見だが──。
「ッたりめェだ。」
オレの手よりも素早い口は、即座にそんな無謀な答えを彼女に返していた。自分で聞いても普段よりも粋がっているような口調になっている。が、オレの意志とはある種関係なく、オレの口は即座にそう答えていた。
もっとも、勝ちに行くこと自体は悪いことではない。昨日まで必要以上に踏ん張っていたのも、連勝を途切れさせずにその分成長促進の恩恵を受けるためだ。それが今日負けてしまうのでは、昨日の踏ん張りが意味のないものになる。そういう意味では、今日も勝たなければならないのは明白だ。
だが、それは昨日までのエッジな日々が、今日一日分増える──下手をすれば明日も明後日もだが──ということを意味している。それは、エンドレスに続くダンスを間違えるまで踊れ、と言われているようなものだ。足がよろけ、次のステップがさらに難しくなるのが分かっていて、それでもどうにか次の一歩を踏み出す。そのダンスを止めるのは、自分の「もう良い」という諦めか、もしくは完全に身体がついて来なくなったミスステップ以外には無い。オレとメイリーは、既に二人とも足がほとんどついて来ていないことを知っていながら、まだ踊るという選択肢を選んでいるのだ。
「…………。」
オレが無言であるので、メイリーが小首を傾げてオレの言葉を待っている。ここは敢えて、苦痛に耐えながら、言わなければなるまい。
「今日も休憩ッ!」
+ + + 「ヤレヤレ……。」 オレは小さく呟くと、木に背を預けたままで溜め息を吐いた。サボっていると言うなかれ、この後の戦闘に向けて充分に身体を休めなければならない。メイリーもここ数日は部活動は全く行く暇がない。オレに至っては普段以上に講義を放置している。ある種ヤバい気もするが、まずは勝たなければならないのだからこの際止むを得ないだろう。
「思い出すなぁ……。」
もそり、と横でオレと同じようにして木に背中を預けていたメイリーが動いてそう言った。オレは足を投げ出したまま、元アサシンには有り得ないような無防備な体勢で、億劫にメイリーの方へ顔を向ける。
「こうやって……エージェントさんと戦う前に森で休んで。ドライアドのお話しして……」
メイリーも半分寝かかっているらしい。言葉が既に途切れ途切れになっている。いつもは話してくれない“かつてのアイヴォリー=ウィンド”との思い出を話してくれるのも、意識のレベルが下がっているからなのかも知れなかった。
「アイの……鎧の上に、乗っかって……」
絶妙な、その間延びした間がオレにも眠気を誘う。冬の乾いた空から降ってくる優しい光が身体を仄かに暖める。戦闘が終われば即移動で時間の余裕がないために、もう天幕は片付けられている。が、こんな昼寝も悪くない。オレもほとんど眠りに落ちていきそうになっていた。
そのとき、木枯らしが吹いた。
「うゥ……寒ィな。」
オレは閉じかかっていた目蓋を開くと、一閃した頬を切り裂くような風に舌打ちした。流石にこれだけ寒くなると、日差しはともかく風が厳しい。オレはケープでそれほど風を受けないが、いつも薄着のメイリーには応えたようだ。隣に座っている彼女の身震いが微かに伝わってきた。
「オイオイ、カゼ引くんじゃねェぞ……ホレ。」
冷たい風に頬を撫でられて覚醒したオレは、ケープの合わせ目を開くと、横に座っているメイリーごと包むようにしてケープを羽織り直した。普段何重かに巻きつけているこのエルフのケープは、広げると結構な大きさになる。色々な巻き方が出来るのは彼らの知恵の結晶だ。オレはエルフたちからそれを教わっていた。多少薄くなったが彼女が風邪を引くよりはよっぽど良い。
「ヤレヤレ、こんなに冷えてたのかよ……。コレじゃ休憩にならねェじゃねェか。」
「うん……あったか……いね……。」
合わせ目を開き、その上に冷えたメイリーが内側に入ってきたことでケープの中の温度が下がる。オレは冷えた彼女の腕を擦ってやった。ケープの中でメイリーがオレに体重を預けうとうとし始める。よっぽど寒かったのだろう。腕は冷え切って氷のように冷たい。
「う、ウィンド先生、そこで何をなさってるんですか……?」
ケープの中でもぞもぞしていると──単にメイリーの腕を擦ってやっていただけだが──後ろから聞き覚えのある声が飛んできた。何か危険なものを見てしまったかのように、微妙にフェリシアの嬢ちゃんの声は押し殺されているような気がしないでもない。
「んー、ご休憩。」
「……お邪魔しました。」
……事実を言っただけだが、微妙に語弊のある言い方だったかも知れない。だが、オレの頬をくすぐる寝息からするに、今さら彼女を追いかけることは出来そうになかった。
「まァ……イイか……。」
半ば投げやりに呟いて、晴れた冬の空を見上げる。風さえなければ気持ち良い。再び睡魔が襲ってくるのを感じながら、オレは意識のどこかで、黒いスーツに身を包んだ宝玉を管理する者を見たような気がした。
+ + + まァ、ゴタクを並べちまったケド、サバドとヤリあう前に手数を減らすようなコトは避けたいっつーコトに集約されるワケだ。そんなワケで、今日のオレの昼メシ後の行動は既に決めてあった。
「メイッ!」
オレが考え込んだママナニも言わなくなったんで、サラームと遊んでいたメイを呼ぶ。エサでもやってたのか、あのトカゲも割とゴキゲンらしい。
「どうしたの、アイ。」
「寝るぞッ!」 予想通り、メイの反応は分かりやすいモノだった。
「ええっ?」「昼寝だ、昼寝ッ!」 飛んでいたメイの不意をついて彼女を捕まえ、寝転がった自分の胸当ての上にムリヤリ寝転がらせる。遺跡が大きな範囲で崩れて青天井になっているこの辺りは、昼スギの光が差し込んできてて至極イイ按配だった。
「もう~、ご飯集めなくていいの?
ボクだって、魔法の修行とかしなきゃいけないし……。」
このサイコーのひと時に対してブツクサ文句を言うメイ。ふてェヤツだ。オレは既に寝たフリで一切の苦情を却下するコトにした。
「すぴー、ぐー。もう食えねェ~。」
「…………」
微妙な沈黙。
「ぷっ……アイってば、そんな分かりやすい寝かたする人はいないよ?」
「うむ、そうか。」
どうもバレバレらしい。ヤレヤレ、ナンでもお見通しだとさ。
日の光が優しい。暖かく降りそそぐソレは、数日前までのヨワヨワしい光から、次第に春の柔らかくもシッカリとしたモノに変わってきていた。
「も~……アイったら、サボってばっか……りじゃ、強く……。」
オレが陽光を堪能してる間に、オレの胸元からはカスかな寝息が聞こえ始めていた。はは、メイも遺跡の進軍続きでダイブ疲れてたらしいな。
春だねェ。
目を閉じて、優しい光が目蓋の裏を焼くのを意識しながら、オレも眠りに落ちていた。
十七日目
オレは傷の痛みに呻きながらどうにか身体を起こした。まだ完全に傷が癒えるには遠いようだ。当たり前だろう、あれだけの傷を負ったのだ。そもそもアサシンというヤツは、傷を癒すなんてことは期待されていない。身体が動くだけの最低限を維持していればそれ以上は必要ない。ただ動くことが出来れば、それで相手を殺すことが出来る。その後がどうなろうが、そんなことは上のヤツらの知ったことじゃない。アサシンは道具であり、使えなくなったそれは捨てれば済むのだから。
「ヤレヤレ……仕方ねェな。今日はどうにかしねェと……。」
昨日の敗北を引きずっている訳には行かない。昨日の、予想外の敵の強さと数ならばともかく、同じ数をそろえた状態で負ける訳には行かないのだ。ひたすら相手を倒すことだけに専念していれば良かったあの頃とは違う。負けても、その負けを引きずらずにすぐに復帰できるかどうかがシーフの腕の良し悪しでもあるのだ。与えられたどんな状況でも最善を尽くして生き残るということが。
「とりあえずは……装備を頼まなきゃねェ……。」
昨日の戦闘で完全に破壊されたブレストプレートは、ある程度補修を施したものの今日一日持つかどうかも怪しいものだ。あれは新調しなければならないだろう。
+ + + 「クソッタレ……。」
オレはそういつもの悪態を呟いてどうにか身体を起こした。その拍子に髪の際から血が流れてきて、それをオレは手甲をつけたままの手で拭う。だがすぐにまた流れてきた血が視界を隠す。オレは目を細めながらメイリーを探した。
「……メイリー、大丈夫か?」
「あはは……ゴメンねアイ、負けちゃった……。」
メイリーもどうにか立っている、といった感じだ。身体を張って彼女への攻撃を減らしたつもりだったが、オレが倒れた後は全ての攻撃がメイリーに行く訳で、結局オレの努力は無駄に終わったようだ。
片膝を突いて自分の装備を確認する。流石にと言うか、この状態でもダガーを握り締めている自分の癖にオレは微かに苦笑を浮かべた。ケープとその下の装備は爪の攻撃でずたずたになっている。ケープはルシュの嬢ちゃんに直してもらわなければ駄目だ。胸当てに至っては吹き飛ばされて傍らに落ちていた。身体に固定するためのバンドはもちろん、本体もほとんど原型を留めていない。これに関しては作り直さなければならないかも知れない。そんなことを思いながら、落ちている胸当てを取りに立ち上がろうとして、オレはこめかみを押さえた。一気に血が流れたせいか軽く目眩がしたのだ。
「アイっ……!
大丈夫、すぐ手当てするから……!」
メイリーがふらつきながらこちらへやってくる。オレの方はというとまだ立ち上がれないようだ。こめかみを押さえたままで、自分の脚を見つめながらそこに付けられた傷をひとつずつ数える。ここでもう一度意識が飛んでしまってはあんまりにもあんまりというものだ。
自分の周りには血溜りができている。爪の一撃にやむを得ず捨てた左手は皮一枚で繋がっているような状態だ。そのまま脇腹を抉られ、そこからは止め処なく血が失われていくのが感覚で分かる。ダガーをブーツに収めて傷を抑え付けるのが、今のオレにできる精一杯の処置だった。傷が内臓に達しているのか、喉の奥から血の臭いがせりあがって来て、オレは無理やりそれを飲み込もうとした。それでも抑え切れずに唇の端を温かい血が一筋流れ落ちた。
やってきたメイリーが簡単な治療魔術を詠唱し、僅かに傷の痛みが和らぐ。だが、流れ出てゆく血の量が減ったようには見えない。明らかに簡単な治療魔法で癒せる範囲を越えた傷だった。
「アイ……嫌だよ、嫌だよ……!」
涙を浮かべながらメイリーがもう一度治癒魔術を行使する。失われていく体温に、手を翳されたその部分だけ微かに暖かさが感じられた。オレは膝を突いて俯いたままで、必死に傷の痛みに耐えていた。
「へへッ……ザマァねェな……。」
「喋っちゃダメっ!」
血だらけの腕を伸ばし、どうにかしてメイリーの髪を掻き混ぜる。必死で上げた視線の先に、必死で泣きじゃくりたい衝動を堪えながら治癒魔術を行使しているメイリーがいた。
「へへ……心配すんな、オレはマダクタバレねェよ……。
メイリーが、生きてる限りは、な……?」
少し乱れた、それでもいつもと変わらぬ柔らかで細い、繊細な髪の感触にアイヴォリーは安堵した。大切なものは、まだここにある。それが傍にある限り、自分は朽ち果てることはない。
+ + + オレは傷の痛みに顔をしかめる。流石にアサシン式のやり方では限界があったようだ。毎日ひたすら身体が動くところまでどうにかコンディションを回復して、そのままその日の戦闘に臨んでいたのだ。だがそんな状態で身体がまともに回復する訳も無く、毎日敵に出来る限りの攻撃を入れてぶっ倒れるということを繰り返していたのだ。その内に昨日のように無理が生じて限界に突き当たることも自分のどこかでは分かっていたのだろうが、勝ち続けることに意識を持っていかれていたせいで騙し騙し毎日の戦闘を遣り繰りしていたのだ。
今日は敵の種類こそ昨日と同じだが、相手の主力であるくまが一体だけだ。新体操部員の属性攻撃は危険だが、メイリーと二人で攻撃を集中すれば体力に劣るヤツは早々に落とせるだろう。そうすれば後はくまを二人でどうにかすれば良い。
「アイ~、傷の具合はどう?」
ウワサをすれば何とやら、天幕の垂れ布を捲ってメイリーが顔を出した。流石に彼女も昨日の戦闘による憔悴の色が隠しきれないようだ。戦闘直後ほどでは無いものの顔色は優れない。
「ん、マダ良くねェな。正直イテェ。」
ここに来てすぐの頃に、神父がオレのことを妖精騎士と呼んだ。妖精騎士というのは伝説上の存在だ。一人のフェアリーに忠誠を誓い、妖精たちの長である女王から超人的な加護を得、そのフェアリーを護る役割を与えられた者。妖精の加護により驚異的な回復力を与えられ、無限の再生能力を持ち、たとえ首を飛ばされたとしても再び立ち上がることが出来たという、伝説上の存在。彼は約束したフェアリーが死ぬまで、老いることも、滅びることもなかったという。
“初めての一人”は、最後まで一人の妖精に付き従ったという。妖精郷を護るための戦いに忠誠を誓ったフェアリーとともに参加し、獅子奮迅の働きをした。妖精郷を護り抜き、護ることを約束した彼女と、そこで彼女が最期を迎えるまで暮らし、彼女の命の灯が消えたそのときに灰になった。二人の魂は手を取り合って妖精たちの生まれた自然の中へ還っていった、として伝説はハッピーエンドで終わっている。
だが、この手の伝説にしては珍しいことに、妖精騎士の伝承はこれだけで終わっていない。その“初めての一人”以外にも、それから何人かの人間が、同じように妖精と共にあることを誓い、同じように不老不死の加護を与えられたという話が残っているのだ。彼らはある者は最後までフェアリーとともにあり、ある者は別れそこで灰となった。またある者は、戦いの最中で約束を果たし切れずに二人で事切れた。
オレが本当にそんな大それた伝説に残るような存在だったならば、こんな傷など気にもならないのだろうが。だが、現実には未だにオレは傷の痛みに呻いていた。フェアリーという稀有な存在が傍にいて、それと肩を並べて戦っているのは伝説の中の英雄と同じだったが、オレの今の現状はそれとは程遠いものだった。
「ん~、でも昨日よりはマシになったかねェ。」
オレはメイリーが差し出してくれた新しい包帯を受け取り、着ていたチュニックを脱いだ。腹はマミーばりに包帯でぐるぐる巻きにされている。治療魔法というのは確かに便利だが万能ではない。傷を受けたそのときには効果を発揮するが、一定以上時間の経った傷には効果を及ぼしてくれないのだ。恐らくこの脇腹の傷も痕として残ることだろう。
「腕の方は……大丈夫?」
「ん……まァ動くだけでもオンノジかねェ。」
オレは戦闘の中で躱し切れない攻撃を受けたときに、盾として革製の篭手を使う。この特注のグローブは指先から手首、そして肘までを守るもので、外側は何度もなめされた、鎧として機能する頑強なものだ。手首の部分は手を反らせると腕のパーツが手の甲のパーツの下に滑り込むようになっている。これを使って、どうしようもない攻撃を身体の外側へと逃がすのだ。
だが当然、身体の一部を使って攻撃を受けるということは危険を伴う。昨日のように腕が使えなくなることもある。下手をすれば腕ごと持っていかれないとも限らない。昨日の傷にしてもメイリーの治療魔法がなければ、今こうして両腕が動く状態で残っていたかどうか怪しいものだ。
「もう。あんまり無茶しちゃ駄目よ?」
「あァ……まァな。」
オレはメイリーの声に曖昧な答えを返す。確かに無茶と言われても仕方がない。腕の一本を捨てて相手を倒すのは、明らかにその先を考えていないアサシンのやり方なのだから。
「でも今日も頑張らなくちゃね♪」
敵の数が少ないとは言え、昨日と同じメンツであることには変わりない。今日も余裕という訳にはいかないだろう。とは言え昨日と同じように腕を捨てたりすればこの口うるさい相方に何を言われるか分かったものではない。
「まァ……連敗はデキねェさな?」
オレがそう言ってメイリーに目をやると、彼女は弾けるような満面の笑みで笑い返してきた。神秘という言葉から程遠く、あまりに人間ぽい彼女が背負う薄い羽翅が、天幕の隙間から差し込む朝の光に白く煌いた。
「よしッ、今日もキアイ入れて行きますかッ!!」
オレは気合を入れて立ち上がると二人で天幕を潜る。今日も“イキスギたエンタメ”の始まりだ。
+ + + ドコからか、オレの中のドコかから、声が聞こえる。
護れ。ソレがオマエの役割だ。その声に従うのは、それほど気分の悪いことじゃない。
十八日目-Merry Christmas and Happy New Year!-
「さて……じゃ準備にかかりますかねェ……?」
オレはいつもの準備室で軽く指を折って鳴らすと、いつものように一人で呟いて部屋を見回した。適当に手分けして集めてきた鍋が五つ。天幕のメンツが十六人に、後はまぁ集まっても四、五人というところだ、これくらいでとりあえずは足りるだろう。
「まァみんなに任せリャどうにかなるかね……。」
自称鍋奉行に腕の良いヤツがいるのかどうかは怪しいが、まぁこういう団体モノはやるヤツがやらなければ何も進まない。後は料理人の兄ちゃんにもひとつ任せられるな。問題は残り二つの鍋を誰に任せるかなのだが……。
メイリー。生クリーム鍋とか甘味どころの鍋は遠慮したい。
CatRYU。普段猫用の食事しかしてるのを見たことがない。猫は人間の食い物も普通に食うが鍋は食ってるトコ見たことねェな。
ルシュ。野菜は鍋の基本だがタンポポとかは遠慮したい。
キーロ。未知数だがドワーフ郷の鍋なら……まぁ良いか。
キミドリ。……モツ鍋一択のような気もするがオレの予想に反論するヤツはまさかいるまい。
アキラはどう見ても料理が出来そうには見えない。やまぶきは……まぁ田舎クセェつーか素朴なヤツなら行けそうか。
ケーニッヒとフェリシアの二人は軍関係だからダッチオーブン辺りを使わせれば何か出来そうか。ピコはお子サマだし火からは遠ざけておいた方が良さそうだ。
ルーは料理以前の問題として、RIGAちゃんも脳髄鍋とかになりそうで却下。幻月はこれまた未知数か。
「ん……手が足りてるのか足りてねェのか……。」
危険物を作るには手が余りそうだが旨いモノを作るには足りなさそうな気がして、オレはイヤな予感に小さく溜め息を吐いた。まぁやってくる学生諸君には、当たり外れは諦めてもらおうか。オレは前にもらったビールの残りを外に運び出しながら、料理の出来そうな連中を組み合わせてどうにか五つの鍋のメニューを考え始めた。
・100%学園栽培、(付加の)残り野菜の水炊き田舎風味:ゲンさん&やまぶき
・軍隊式ブラックポット、煮込みハンバーグに魔法の小瓶:フェリシア&ケーニッヒ
・今や高価な兎(モツ)鍋、辛さアサシン級:キミドリ&アイヴォリー
・名料理人が捌く実演、死屍累々くま鍋:マーガス
・観光冊子にも載らないヒミツ、ドワーフ郷直伝煮込み─式神の火力:キーロ&幻月
……どれも危険な臭いがするのはオレだけだろうか。
+ + + 「おいおい嬢ちゃん、水炊きなんだから味噌はいらねぇぞ。」
「神父様……タバスコ入れ過ぎじゃないでしょうか?」
「そんなに香辛料を入れては身体に良くないと思うのですが。主に胃の辺りに。」
「ってくま今から狩ってくるんか……?」
「…………。」
始める前から大騒ぎだ。まぁ宴会だしこういうものでもあるとは思うのだが。
「あァ、メイリー!
来たヤツに席順選ばせといてくれ!」
オレは講義室にそろそろ姿を見せ始めた連中を指差し、メイリーにクジを渡す。当然座る場所に関して選択権はない。ある種闇鍋くさい。
「ソロソロどの鍋も準備デキたかよ?」
オレは料理担当全員の顔を見回すと進行具合を確認する。まぁ後は具材を入れれば行けそうか。
「よしッ、じゃあソロソロ始めるか!
そこの座席表と自分のナンバー照らし合わせて座りやがれ!」
オレは準備室の扉を開放すると講義用の教室で待たされていた連中を招き入れた。天幕で料理に関わっていなかった面々に、後は維緒の嬢ちゃん、人狩りのお子サマといった講義で顔を見かけたことのある面々、その知り合いが数人ずつ。
「神官のお子サマ、外に置いたビール持ってきてくれ。イイ具合に冷えてるだろ。
じゃみんな適当に食ってくれ。以上、以降は無礼講ッ!」
この後さらに大騒ぎになったのは言うまでもない。
+ + + 「うゥ、寒ィと思ったら今日は雪かよ……。」
メイリーはそれでもいつもの薄着を崩そうとしない。この前制服着ていたのを見た以外には常に薄着なのだから、ある意味良い根性だ。
「コドモは風の子ッてな……。」
「何か言った?」
地獄耳の彼女がオレの呟きを耳聡く聞きつけた。オレは適当に首を振っていつものように誤魔化しておくことにする。
「しっかし珍しいねェ……雪か。」
「うん、思い出すなぁ。遺跡の中ですっごい雪降ってきたときのこととか。」
その言葉を聞いて、オレは唐突にメイリーの可愛らしい要求を思い出した。何がどうソレを連想させたのかは分からない。だが、恐らくは窓の外で薄っすらと積もっていた雪を見て、オレはソレを思い出したのだった。材料は適当に購買から揃えられるだろうか。まぁ買い出しに行ってみるのも悪くは無い。
「よし、今日はケーキでも作るかねェ。」
「ほんとほんと?
やったぁ♪」
オレは適当にケープを羽織ると、いつもの癖でダガーをブーツに佩いた。休み中は必要は無いはずなのだが、身体に染み付いた昔からの習慣というのはイヤなものだ。オレは自分に微かに苦笑すると、それでもダガーの位置を僅かに直してしっかり固定する。
「んじゃ行くかねェ。」
「アイってばまたそうやって……お行儀悪いんだから。」
いつものように準備室に繋がっている講義用の教室の窓から身を乗り出したオレを見てメイリーが眉をひそめた。まともに扉から出て行くと当たり前のことながら廊下を通らなければならない。そしてこれまた当たり前のことながら、校舎の出口は限られたところにしかないのでちょっとした遠回りになるのだ。そこでオレは学生よろしくいつもこの窓から出入りしていた。ここから中庭に出れば購買までは一直線だ。
「どうせダレも見ちゃいねェよ。ホレ?」
窓枠を飛び越えて振り返りメイリーに手を差し出す。何やら非難を口にしながらも、オレが越えてしまったので彼女はオレの手を取ると窓枠に腰掛けて乗り越える。ふわり、と、オレの手を取ったまま少しだけ浮かび上がると、メイリーは軽やかにオレの横に降り立った。
「しっかしマジで寒ィねェ……。」
肩を竦めるようにして身を震わせる。薄っすらと積もった雪が陽の光を反射して白い。握ったままの彼女の手が小さく震えているのに気付いたオレはケープを外してメイリーに掛けてやった。
「アイは寒くないの?」
「裾引きずるんじゃねェぞ。」
答えになっていない答えを返すと、オレはさっさと歩き出した。少し遅れてからオレの後を付いてきた彼女から、小さな笑い声と言葉が飛んできた。
「……ありがと♪」
久々の連休で校舎には人影もない。どうせ休みの日は戦うことも禁止されている。単位も装備も得られないのにわざわざ戦うようなヤツはほとんどいないのだ。休みの日は休んでおくに限る。白い世界をオレたちはゆっくりと二人だけで歩いた。
「……イチゴ……あるとイイケドな?」
振り返ってそう彼女に問いかけると、満面の笑みが返ってきた。
+ + + 流石にイチゴはなかったが、まぁこればっかりは仕方がない。代用品としてイチゴソフト──スポンジにカットしたイチゴと生クリームを挟んだアレだ──は買ったのだが。
「アイ~、デコレーションやっていい?」
「あァ、まァ始めるか。」
イチゴがなかった割にはメイリーもご機嫌だ。まぁ食べるのもともかくとして、こういうプロセスが楽しいらしい。オレは彼女に急かされてどうにか手に入ったホールのスポンジを箱から取り出す。メイリーは鼻歌を歌いながら、オレが任せたクリームの泡立てをやっている。
「ッてソレだけ舐めるな。ッつーか鼻のアタマにツイてるぞ?」
ふと目を上げると、ボールに突っ込んだ指をメイリーが舐めていた。しかもどうやったのか、ご丁寧に鼻にクリームまで付けている。
「えへへへへ♪」
彼女が目じりを下げて、思いっきり幸せそうな顔で微笑んだ。オレは苦笑しながらスポンジを机の上に敷いたシートの上に置く。
僅かな休みの時間は、思ったよりもゆっくりと過ぎていく。
+ + + 「ん~、ソロソロイイかねェ。」
オレは火の消えた焚き火をかき混ぜると小さく息を吐いた。闇に沈んでしまった校舎は黒々としていささか気味が悪い。中庭で枯葉を集めて勝手に火を起こしたオレは校舎を見上げると小さく溜め息を吐いた。
火をかき混ぜるのに使っていた太目の枝を使って、オレは熾き火の形を整えていく。どこかで見た不恰好な地上の星にオレは苦笑を浮かべた。
「懐かしい……ね。」
「ん?」
唐突なメイリーの言葉に、オレは彼女を振り返った。膝を抱え込んで地面に腰を下ろした彼女はぼんやりと熾き火を見つめながら小さく吐息を吐いてオレを遠い目で見透かす。だが、思い出からすぐに引き戻された彼女は急に微笑みを浮かべて見せた。
「やっぱり……アイはアイだから……。こうしてるだけで、何かを一緒にするたびに……そう思えるから……ん。」
小さく、自分に納得させるように呟いた彼女は最後に頷くと、健気な笑みを見せた。オレは大きく息を吐くと目を細めてメイリーに口の端で笑みを浮かべた。どうやら“オレ”は、前にも同じものを彼女に作ってやったことがあったらしい。
同じモノ送るッつーのはイケてねェなァ。
オレは自分に抜け落ちている──もしくはそもそも知らない──その記憶とそのときのオレに心の中で肩を竦めた。まったくどうしようもない話だ。
「ソレでも……オレはオレだからよ。デキるようにヤッてくしかねェさ。」
それはオレを肯定する言葉であり、同時に彼女の希望を打ち砕く言葉だった。それでも、オレは嘘を吐くことは出来なかった。
「うん、分かってる。大丈夫だよ。ボクは大丈夫だから……。これからだって、沢山のものを作っていけるから……アイがいれば、大丈夫だよ。」
彼女の微笑みは、メイリーをオレが苦しめていることを如実に物語っている。そして、オレは彼女に、多分救われている。
「ソレでも……デキるコトをヤッてくしか……ねェんだよな……。」
また戦いの日々に戻る。少なくとも、そこはオレの領分だ。彼女をせめて肉体的に傷つけないために、オレはもう一度覚悟を決めた。
十九日目
短い休みはあっという間に終わり、オレたちはまた戦いの日々に戻っている。敵の強さは相変わらず厳しいが、待ってくれる訳でもない。オレたちはマリモ戦を明日に控えていた。
「ん……技能はどうにかなったかねェ……後は地リキがモノを言うッてトコですかね……。」
オレはメイリーを見やって思案した。どうしてもこの手のイベントには、準備の時間が足りなくなる。無論時間などいくらあっても足りないというのは真理ではあるのだが、それでも予定通りに行くとは限らない毎日の戦闘の連続で、オレたちは疲弊していた。
「訓練の時間……足りるかなぁ?」
メイリーが珍しく気弱な発言をしている。まぁオレも毎日ぶっ倒れることこそ無くなったものの、相変わらずカツカツで毎日を遣り繰りしているのだ。彼女もそれは同じだろう。
「後は今日ルシュの嬢ちゃんが作ってくれる装飾と、付加の具合次第かもな。」
正直そこが大きなウェイトを占めているといっても過言では無い。魔法に撃たれ弱いオレが、一人で相手全てのホーミングミサイルを捌かなければならないのだ。あの追尾性能に優れたマジックミサイルを、魔法に疎いオレが全段躱すなんてのは不可能な話だ。それで体勢が崩れればタックルだってどれだけ躱していけるか怪しいものだ。そのための魔法防御用の装飾と、それに付与される防御系の付加。それが今回のオレの銀の弾丸だ。
「メイリーも、しっかり回復頼むぜ?」
「うん、大丈夫よ。当たるかどうかだと思うけど……。」
そう、もうひとつ奥の手がオレたちにはある。メイリーの覚えたボロウライフだ。この魔術の威力はさほどでもなく期待は出来ない。だが、相手に与えたダメージの一部を術者の仲間に癒しの力として還元してくれるのだ。恐らくは前衛に立ったオレの傷を減らす役目を果たしてくれる。それまでにメイリーのマジックボムとそれで生じるダメージ追加、オレの混乱を引き起こすトラップ。それで相手をどれだけ削れるか。その後は根性試しだ。
「へへ、まァどうにかなるさね。コレまでもそうやって来たしな?」
「うん、ちゃんと鍛えてきたんだから負けないのよ♪」
実際にはどうなるかは分からない。せめてあと一日か二日あればまた違ったのだろうが。それよりも何よりも、それ以前にまだ今日の戦いがあるのだ。
「今日は……昨日のうぃっちと……ネコ学生……??
ナンだ、ねこっちの知り合いかナンかかァ?」
オレは猫学生という言葉の響きから、学生服を無理やり着せられた唯のネコを想像した。まぁまさかとは思うがこの学園のことだ、いろんな意味で油断は出来ない。
「ふふっ……それはないと思うよ??」
向かい側から忍び笑いが聞こえてきた。どうもよっぽど変な顔をしていたらしい。メイリーがオレの想像しているものがどんなものだと思ったのかは分からないが、一切それを確認することもせずに否定された。
「まァ……な。」
イヤイヤ、マリモもあんだけ訳の分からない物体で教師なのだ、充分に有り得ると思うぞ。
「でも……やっぱり懐かしいね、こういうの。」
メイリーは“島”で、何度かこうやって区切りになる戦いを経験しているらしい。オレはともかく、彼女もそういう経験をしているというのは非常に大きい。見た目では全く争いごととは無縁のように見えるメイリーだが、本当にそういう大きな戦いを経験しているのといないのでは、実際の動きが違う。彼女に対して使うのは適切かどうか分からないが、俗に言う“戦い慣れしている”というヤツだ。
+ + + + + + 「さて、貴方の欲しているものは私が所持しております。しかし、それを貴方に預ける前に、まずは一度お手合わせ願えますかな?」「ゴタクはイイぜ。さっさと始めような?」
いつものような、片頬だけを歪めるその笑みで、しかしいつもの愛嬌を全く感じさせずにアイヴォリーは笑う。サバドは表情を変えずに、芝居がかった仕草で両手を広げ、アイヴォリーの言葉に答えた。もう一つ影が伸び、サバドを模したような黒い影──マイナークラークと呼ばれるエージェントの部下──が一つ現れる。
ざわり。
再び木々がざわめいた。その重なる木々、葉と葉の間に、縦横に張り巡らされたワイヤーを、アイヴォリーは見た。そのワイヤーは、アイヴォリーが“クモの巣”で駆使するそれほどには細くはなく、しかしそれゆえに強靭さを秘めている。相手の行動を束縛し、行動速度を低下させるための“蜘蛛の巣”だ。
アイヴォリーは一度目を閉じると、しっかりと頭の中でそのワイヤーの位置を把握する。それは同時に、ワイヤーが解放された時にどのような軌跡を描くのかを理解する作業でもあった。
「アンタ、サバドッつったな。アンタの持ってるモン、貰い受けるぜ。」
それに応え、微かに微笑む──口元を歪めてみせるサバド。三度森の木々が呼応した。それは、その糧たる水の宝玉を失いたくないからなのか。
キン。
澄んだ、金属質の音。
唐突に、だが確実に戦闘は、その金属音で始まった。
+ + + 「あぁ……もう会ってんだな、解った解った。それなら話は早い、さっさと喧嘩しようじゃないか。」 そう、役割として宝玉の管理者という役を任されている神崎は、そう言うしかないのだった。そして、それを聞いたアイヴォリーがその鮮血色の瞳を細め、楽しそうに──本当に楽しそうな表情で──笑う。
「へへ、イイねェ。ケンカしようぜ?」
無造作に立っていたように見えたアイヴォリーが、瞬時に低い姿勢から砂を蹴って走り込む。不意打ちに見えたその一撃は、全てを見透かしていたかのように神崎の腕に阻まれた。
純粋で素直な──生きるということに対して素直過ぎる──二人が、一瞬だけぶつかり合い、すぐに別たれる。先制攻撃を往なされたアイヴォリーが不敵な笑みを浮かべた。神崎から離れるアイヴォリーを庇うようにして、メイの弓が一杯まで引き絞られ、放たれる。矢を素手で叩き落した神崎が、満面の笑みを浮かべた。
「来いよ。叩き潰してやる……しっかり立ってろよ?」
今度は神崎が動いた。浴びせられる矢を払い落としながら一気にアイヴォリーに肉薄し、拳と蹴りの乱打を打ち込んだ。その軌道のことごとくに、アイヴォリーが割り込ませたパリィングダガーの刃が邪魔をして神崎は致命的な一撃を打ち込めない。そして、二人が今一度、間合いを取って構える。
「ヤるな、オッサン。」
+ + + 「暑ィのは、テメェが守ってるソレのせいだろうがよ?」
アイヴォリーが思わず嫌味を言う。だが、アイヴォリーたちの様子も、アイヴォリーの嫌味すら気にした様子もなく、ニィと名乗った宝玉の守護者はあくまで気安く話しかけた。気安さを通り越して軽薄な雰囲気すら感じさせる。それも、かなり軽い部類に入る。
だが、次の瞬間。ニィがその身に纏う雰囲気が僅かに変わったことを、アイヴォリーははっきりと感じ取った。アイヴォリーとすれば、僅かに、ゆったりと流れていた風の向きが唐突に変わったように感じたのだが。
「……ソロソロ……楽しいお喋りの時間は終わりかァ?」
僅かに距離を取り、姿勢を低くするいつもの構えにアイヴォリーが入る。アイヴォリーは、ニィと名乗ったその男の気安い笑みが、一瞬だけ凶悪な、火の如き残虐さを内に秘めたそれに変わるのを確かに見た。
「多分解ってるよね! 勝てば宝玉ゲット!負ければまた今度!てことで、はじまりはじまり♪」 ニィの言葉とともに、彼の右側で陽炎が揺らめいてスーツを纏った人影──守護者が使役する、マイナークラークと呼ばれる魂を持たぬ人形──が現れる。アイヴォリーはメイに、顔はニィの方へと向けたままで声をかけた。
「来るぞ、メイ!」
+ + + 「テメェに用はねェんだよ、退きな。」
冷たい笑みとともに振るわれたアイヴォリーの右手のダガーが、実体化したマイナークラークの眉間に叩き込まれ、それと同時にその部分から石化して、砕けてゆく。最期の一撃を入れようとして足掻くように振るわれたその腕を掻い潜り、アイヴォリーはダガーを念入りに、一度に神経毒が注ぎ込まれてショックを引き起こすように捩じりながら、引き抜きつつ膝からくず折れるマイナークラークの肩を踏み台に、さらにホリィへと接近した。
「精霊さん、私に纏わりついて!!」「風よ、集えココにッ!」
同時に自らの信じる“風”を呼び込み、ホリィは風の刃を、アイヴォリーは導く風の流れをその身に纏う。マイナークラークから跳躍して放たれた必殺の一撃を、ホリィは手に集めた風の壁で横へと逸らせた。アイヴォリーの後ろで石化仕切ったマイナークラークが倒れ、粉々になったその破片を風が吹き散らす。
+ + + + + + 「ッつッ……。」
唐突に、会ったこともない黒尽くめのお仕着せを着た四人の顔が浮かんだ。そして、そいつらと戦うために、メイリーと肩を並べているのは間違いなくオレだった。だがその景色は、同時に襲ってきた頭痛に押し隠されるようにして瞬時に霧散してしまう。
「アイ……大丈夫?」
「あ、あァ……イツものだ……大丈夫、すぐに収まる……。」
オレはメイリーを心配させないように、こめかみを押さえたままでそう言った。最近収まっていたんだが、やはり過去のことになるとダメらしい。大して弊害もないので放っておいたのだが、やはり元凶をどうにかしなければならないらしい。
「まァそうさな……マリモ戦が終わったらフェリシアの嬢ちゃんに診てもらうとするかねェ……。」
「うん、それがいいと思う。本当につらそうだし……。」
戦闘中に頭痛でぶっ倒れたりしたら何のための護衛なのか分かったものではない。だが、それもこれもとりあえずは今日とマリモ戦とを乗り切ってからだ。
「ドレだけ効果が出ますかね……。」
続いていくために、終わらないために、今日も勝たなければならない。
二十日目
「さて……。」
オレは小さく溜め息を吐くと机の上に目をやった。そこにはいつも罠に使っているワイヤーの束が並べてあった。普段と同じ手順、普段と同じやり方。戦いに大切なのは、どれだけの部分を単純作業化できるかだ。
だが、今日は全てが普段通りという訳ではなかった。机の上に置かれたワイヤーの束の数は普段とは比べるべくもない。今日の相手の数が格段に多いからだ。そしてそれに加えて今日のオレの戦闘は、能動受動を織り交ぜて全てトラップで構成されていた。
相手を惑わせる“螺旋の刃”。“クモの巣”は能動的にオレから発動しにいくものと相手の行動がトリガーになって不意を突くものの二種類を用意してある。今日の主力はあくまでもメイリーの火力だ。その火力を補佐するために相手の耐久性を落とすガスまで準備してある。これもトリガーはワイヤーなのだ。そんな訳で、机の上にはワイヤーの束で山が出来上がっていた。
「ヤレヤレ……まァコレだけあれば足りますかねェ……。」
オレは立ち上がると身体を伸ばした。緻密な作業で固まった身体の隅々に新鮮な血液が行き渡り冷えた身体が暖まってくる。気付けば空が明るくなり始めていた。冬の朝日は遅い。そろそろみんなも起き出して来る頃合のはずだ。
+ + + 「アイ~、何だか今日のアイ、手おっきくない?」
変なところばかり見ていると言うか、流石に気がつくと素直に褒めておくべきか。メイリーはオレの特盛り大サービスのワイヤーが仕込まれた手甲を見てそう言った。戦闘が始まるまでにはそのほとんどは敷設してしまうので問題は無いのだが、流石に違和感があった。
「だァァァッ、触るんじゃねェッ!
絡まったらコマるんだッ!!」
腕にまとわりつこうとしたメイリーをとっさに躱し、触れられないように腕を上げる。流石に冗談だったらしくメイリーはくすくす笑いながらオレを下から覗きこんだ。
「準備、もう良いみたいね?」
「当たり前だ。もうイツでもイケるぜ。」
机の上に、メイリーが持ってきた今日の戦場の地図を広げる。今日の相手であるマリモニアンは校長から棟の一角を丸々一部与えられている。その区画は実験室や準備室、資材置き場などでちょっとしたダンジョン状態らしい。元の校舎の地図がどれだけ役に立つかは怪しいものだが、まさか基本的な部屋の配置までは変わっていないだろう。オレはもちろんのこと、メイリーも生物は履修していなかったらしくオレたちは二人ともその辺りには不慣れだった。
「今日の主役はアクマでもメイリーだからな。オレはタダのカベだ。相手はほっといても勝手に自壊する。オレはデキるだけ相手を引き付けるから、そのアイダにメイリーは少しでも相手をケズるんだ。イイな?」
「うん、頑張るよ。」
真剣な面持ちで頷くメイリー。オレは自分が設置するトラップの位置を地図に書き込んでいく。能動的なトラップはメイリーの位置を見て発動させれば済むのだが、完全に設置しておく受動的なものに関してはメイリーにも位置を覚えてもらわなければならない。メイリーがそのトラップを踏んでしまっては何の意味もないのだ。まぁこれも勉強の一環といったところか。
メイリーはオレが書き込んだ地図の、トラップの位置と種類を必死に睨みつけている。あまりに真剣な表情で地図を見ながらぶつぶつ言っているメイリーを見て、オレは少しからかってやることにした。
「まァデキればオレが倒れるまでに相手をカタしてくれよな?」
「うん……えっとここの罠の向きがこうで……ええっ!?
あーん、もうわかんなくなっちゃったじゃない!」
何と言うか、予想通りに違うことを言われて覚えていたことがすっ飛んだらしい。オレは苦笑を浮かべてメイリーが振り上げた拳を躱す振りをする。オレはメイリーの頭を軽くぽんぽんと叩くといつもの人を食ったような笑みを浮かべて見せた。
「シッカリ覚えてくれよ?」
「うん……でも大丈夫かな。マリモ先生すごく固いらしいし……。」
何を心配そうな顔をしているのかと思えば、どうやら今オレが言ったことを真剣に気にしているらしい。オレは肩を竦めて見せる。
「気にすんな。メイリーが最後に立ってればソレでイイ。」
彼女の行動が、全て主力を撃ち切ってボロウライフに移ればオレの生存率は確かに上がる。だが、メイリーには言ってはいなかったが、実際にはそこまでオレが残っている公算は非常に低い。あくまでも耐久力に劣るメイリーが前線に押し出されてから、少しでも彼女の耐久力の足しになれば良い。オレとしてはそういうつもりだった。
「でも……どうせなら二人で勝てれば良いよね。」
カツカツの戦いってのは、そんな甘ったれたもんじゃない。もっとエッジの、お互いに相手を削り尽くすのが、本当の踏ん張りどころというヤツだ。そう心の中でオレは思ったが、それでもオレは違うことを口にした。
「あァ。大丈夫、あの程度ホイホイ避けてヤるさね。心配すんな。」
肉体の傷など直に癒える。たとえ自分が動けなくなるほどの傷を負っても、そんなものは負けて彼女が傷つくのを見るよりもずっと軽いものだ。
オレは“盾”なのだから。
+ + + そうして、オレたちはようやく生物室のある建物に足を踏み入れた。薄暗い一直線の廊下に窓はなく、壁を埋め尽くすようにして置かれたショーケースの中から気味の悪い標本がオレたちを恨めしげな目で眺めていた。大概は見知った動物や何かのものだが、中には全く想像も付かないような奇形や、どこの無能な魔術師が魔法を失敗したのかと思わせるような趣味の悪い合成生物などのものもある。胎児や内臓系の標本は何が違うのか呆れるほどに数があった。
「アイ……何だかここ嫌な感じがするよ……。」
メイリーがそう言って、もはや唯の小さな白い四角と化した、オレたちが入ってきた扉を振り返る。何だかもナニも、誰がどう見ても出来の悪いお化け屋敷といった感じだ。エリートだか何だか知らないが、この棟の丸々一角を与えられてそこをこんな状態にしているとはいい度胸だ。オレは嫌悪か嫉妬か良く分からないドロドロとしたものを押さえ込んだ。
「まァもう少しのガマンさね……ホラ、ソコだ。」
オレが指差した少し先の廊下には、そこだけショーケースが途切れている部分があった。そこには薄汚れた扉があり、扉よりもさらに汚れて薄緑色と化したネームプレートがかかっていた。マリモニアンと書かれていたのだろうが汚れすぎていてその字は読めない。緑の液体で書かれたらしいそれは、インクを付けすぎたのかおどろおどろしく文字の端々が滴りで乱れている。その様子は、字が緑色であるにもかかわらず、なぜか血を連想させた。
「風が……吹いてねェな。」
「うん……風の精霊様が感じられないよ……。」
空気の流れを頼りにするシーフと、風の精霊の加護を受けたフェアリー。その二人でなくても分かるほどに、空気は澱んでいた。メイリーに至っては頭痛がするのか眉根を寄せている。オレもあまり調子が良くなるような空気だとは口が裂けても言えなかった。今日も既に何人かがここへ入り、昨日までにはかなりの人数がここを訪れて激しい戦いを繰り広げたはずなのに、その空気はずっと閉め切られたままの地下墳墓を思わせた。
「さて……行くぜ、メイリー。」
扉に近づくと、それだけで異臭が強くなった。オレは小さく吐息をついて澱んだ空気を吐き出すと、肩越しにメイリーを振り返る。そしてその小さな扉のノブを掴み……。
べちゃり。
「ッ!!」
ノブは、粘性の何かで濡れていた。オレはあからさまに舌打ちすると唇を噛み締めてメイリーに呼びかけて自分も駆け出す。
「メイリー、逃げろッ!!」
+ + + 「はぁ、はぁ、こ……ここまで来たら大丈夫……よね?」
突然オレに急かされたメイリーは、まさに弾かれたようにして逃げ出した。どれくらい走っただろうか、ようやく外へつながる扉の輪郭が分かる辺りまで走ってオレたちはようやく足を止めた。
「あァ……多分……な……。」
オレはそうメイリーに答えると、外へ出ようとして扉に手をかける。そこで小さくオレは鼻を鳴らした。
背後から異臭がする。「ヤァ。」 ケープの背に、その異臭の発生源があった。オレは驚愕の表情を浮かべてそれを剥ぎ取ろうとした。
背中にマリモがへばりついている。生物教師のマリモニアン先生だ、こう見えてもエリートらしい。「あ……アイ……っ、それっ!!」
メイリーが小さく悲鳴を上げた。
「ダミジャナィ、カンタンニハィゴトラレチャ。ソレジャタンイアゲラレナィヨ?」 背中から離れると、空中にほわほわと浮んで分裂し始める。「ダィジョォブカナァ、イクヨ?カッタラタンイヲアゲルカラネ。」 マリモはどんどん分裂を繰り返し―――…… そこで、オレは眉をしかめて悪態を吐いた。
「クソッタレ……ヤレヤレ、メイリー、もう“イイ”ぜ。」
いい加減驚きの表情を浮かべたままなのも疲れる。それよりも、予定外にケープを汚されたことでオレは少しムカついていた。
「あ、そう……?」
オレにそう声をかけられたメイリーも、若干オーバー気味な驚きの表情を引っ込めた。オレは溜め息を吐くとマリモを振り返る。分裂したマリモたちは、何が起こったのか理解出来ないのか、もしくはそれでも一応戦闘準備なのか、増えすぎてお互いにぶつかり合いながら廊下を埋め尽くしていた。
「あのよォ……いくら非常勤でもシーフの講師がそんなカンタンにバックアタックされチャ、コマるワケよ。オーケィ?」
オレは姿勢を低くして構えると、両足に佩いたダガーを抜き放った。扉を後ろに蹴り開け、風を呼び込む。差し込んだ明かりに、無数のワイヤーが微かに煌いた。口の端を歪めて片頬で笑みを浮かべ、オレは鼻で笑う。
「気付かなかったか……ソコはもう、オレの領域だ。」
指を鳴らすと、メイリーの両手に魔力が収束し始める。オレは彼女を庇うように位置を取ると床を蹴ってマリモの群れに突っ込んだ。
「クリーニング代の分、余計にイテェ目に遭ってもらわねェとな……。
……ようこそ、風の吹き荒ぶテリトリーへッ!!」
二十一日目
「さてと……じゃちょっと行ってくるぜ。……大人しくしてろよ?」
オレは重い腰をようやく上げるとコート掛けに引っかけたケープを手に取った。メイリーを振り返りそう念を押す。大丈夫だとは思うが、準備室は言ってみればトラップの山だ。迂闊に触れば対侵入者用の危険なものを発動させてしまわないとも限らない。
「大丈夫よー。もうここの準備室も慣れたしね?」
メイリーはそう言って小さく笑った。確かにここも三日目だ。オレたちはマリモ戦直前にはぐれたキミドリの嬢ちゃんと、その相方であるキーロの爺さんのためにマリモを倒した後もここに逗留していた。まぁ天幕全体としては時間のロスではあるのだろうが致し方ない。そして、その時間はオレにとってはちょうど都合の良い空き時間を与えてくれていた。
校舎には保健室を始めとして様々な施設がある。マリモニアンが陣取っていた生物室の区画もそうだ。そういった施設はフェリシアの嬢ちゃんにとっては非常に価値あるもので、オレが診察を受けるにはこれ以上ない環境だと言えた。
続くフラッシュバック。突然襲う頭痛。知っているはずのない──もしくは知っていなければならない──数々の情報。そういったオレの個人的な様々なことを解決しておくには良いタイミングだったのだ。
「じゃ後は頼むぜ。」
適当にメイリーに後を託し、肩にケープを引っかけるとオレは扉に手をかける。その背中にメイリーが声をかけた。
「うん、行ってらっしゃい。」
明るく、オレにいつもの微笑みを浮かべて。だが不意に、その笑みが微かに、だが確かに翳った。まるでちょっと思い出したことを付け加えるようにして、彼女は口に出そうか迷っていた──恐らくは本当に聞きたかった本題を──口にした。
「アイ……もういなくなったり……しないよね?
あの時みたいに……大丈夫だよね?」
僅かに瞳が揺れていた。一度口に出してしまえば、それが実現してしまうのではないかという恐れ。オレの知らない“イツか”のように、また置き去りにされてしまうのでは無いかという──。
「大丈夫さ。心配すんな。な?」
だからオレは、いつもの人を食ったような笑みを浮かべて、いつものようにそれを一笑に付した。そう、その時のオレもそう言ったのかも知れない。いつだってそう言って彼女を裏切り続けてきたのかも知れない。
だが、それはオレに出来る唯一の意思表示で、オレの一番の約束の仕方だったのだ。
+ + + 「で、どうなんだ……?」
「物理的な要因は……見られませんね。もっともこの施設では何とも言えませんけど……隊長ならともかく私では……。」
そういうとフェリシアの嬢ちゃんは表情を曇らせた。ここの設備は素人のオレから見てもかなりのハイレベルだ。もっとも天幕本部のそれには及ぶべくもないのだが。無論嬢ちゃんの腕に関しても施設を持て余しているようには見えない。
「やはり精神的なものが原因であると思われます。人間の脳というのは複雑で強烈な刺激……要するにショックですね、を受けると、自分に都合の良くないことを防衛のために消してしまったり捏造してしまったりすることもあります。」
「ソコまで打たれ弱くはねェと思うんだケドねェ。」
オレの呟きを聞いてフェリシアの嬢ちゃんは小さく首を振った。アサシンの時代から大抵の厳しい状況は経験してきたオレだが、どうもそういうことでもないということらしい。
「そうですね……では……。」
嬢ちゃんが手直に置かれた封筒を手に取った。試してみましょうか、そう呟くと彼女は封筒の中身を取り出す。それは何かの分厚い書類だった。
「これが何か分かりますか、ウィンド先生?」
それは何かの報告書らしかった。ページによっては込み入った表や何かの組み合わせなどが詳細に記述されている。手書きらしいそれは、書き手の性格を表しているかのような几帳面な文字で、びっしりと書き込まれていた。だが、オレにとっては全く意味不明で何のことを書いているのかさっぱり分からない。
「見覚えは無いですか?
では、これは?」
嬢ちゃんは次に、一枚の紙切れを取り出した。こちらはオレにでも分かる。どこかを攻撃する際の手筈を論じたものだ。これだけでは断片的で全体は把握できないが、かなり戦力の彼我に差があり、それを埋めるためにかなりトリッキーな方法を採るようだ。先ほどの難解な書類と同じ書き手が書いた元々の文書に、後から付け加えられたらしい注釈があちこちに付いている。
「コレの……ホカはドコに行ったんだ?」
オレは肩を竦めて嬢ちゃんにそう聞いた。これだけではどうにも判断のしようがない。だが彼女は薄っすらと笑みを浮かべてオレに首を振った。
「こちらは……これ以上は今の段階ではお見せできません。危険ですので。」
そう言われて、仕方なくもう一度書類に目を落とす。嬢ちゃんはどうやら細心の注意を払って、この書類の概要が掴めない一枚を選んだらしい。だが、そこであることにオレは気付いた。気付いてしまった。
+ + + 「ヤレヤレ、面倒な宿題を置いてイキヤガッて……。」
アイヴォリーは小さく溜め息をつくと、その書類の一枚に手製の果汁インクで何ごとかを書き入れた。問題のありそうな箇所を修正しているらしい。だが、そもそもが、虹色天幕などというとんでもない組織に対抗するための作戦なのだ。問題があるどころの話ではなかった。特に、天幕本部に乗り込んでからの戦闘の実行手順に関しては、問題というよりも無茶で無策なものだとしか言いようがない。
当のアイヴォリーとて、天幕の“真の本部”の内情を全て知っている訳ではない。そもそも、通常の団員に至っては“金色”との面会すら許されず、彼の居場所を知りもしないのだから、彼を倒すというその目標は困難窮まるのだ。現にアイヴォリーがエリィを解放するために“金色”の寝所に侵入した時でさえ、事前に宝玉が集まった場合の行動手順を知らされていたから分かったようなものだ。しかもそれでさえ、幾重にも重なる厳重な警備を突破してようやく辿り着いたのである。
その上、天幕の“真の本部”は次元の狭間に存在するという特異な性質上、技術さえ伴っていれば如何様にでもその形状を変化させることが出来る。だからこそ、突然の団員の増加があっても困ることもなければ、団員に与えられた個人スペースの他にもトレーニングルームから実験室、会議室や果ては大浴場、ガラクタ置き場までの一切合財を内包して存在できるのである。本部内であっても幾層にもその階層が分かれ、次元転移装置を使用して行き来しているのだ。そして、アイヴォリーが潜入してエリィを解放した時と構造が同じであるという確証は何一つとしてない──団員の顔ぶれも、“銀”の肉体も変わった今となってはそうしておく必要がない──のだった。
「まァそうさなァ……とりあえずは見つからねェようにナカマを集めるのが先決だろ……。」
相変わらず独り言を呟きながら書類に書き込みを続けるアイヴォリーを、横からメイが覗き込んだ。書類の影から顔を出し、何が楽しいのか満面の笑みでアイヴォリーを見つめている。
「ん?
どした、メイ。」
妙に嬉しそうなメイの顔を見て、アイヴォリーが怪訝な顔で尋ねた。それでなくても今日は宝玉戦なのだ、いつもならばメイは緊張して硬い表情を浮かべて、この休憩時間もろくに休めないような有様のはずなのだ。
「ううん。そんな困ったアイの顔見るのって、珍しいなぁ~って。」
真剣に難儀していたアイヴォリーは、その言葉を聞いてじろりとメイを白い目で見た。だがその原因である当人は気にした様子もなく、アイヴォリーのその表情を見てくすくすと笑っている。よっぽど情けない顔でアイヴォリーが書類と格闘していたに違いなかった。
「マッタク……ナンだよ?」
不機嫌そうに尋ねるアイヴォリーに、メイが何かを差し出す。それは薄い香りを漂わせた褐色の液体を湛えた、アイヴォリーのカップだった。
「もう、夜にはホリィさんと戦わなきゃいけないのに、そんなに根を詰めたらダメでしょ?」
にっこりと笑って差し出されたカップを思わず受け取り、アイヴォリーはその中身を一口啜る。それは、島に来たばかりの頃に作っていた、歩行雑草の実から作ったコーヒーだった。
「ね、アイ。少しは休んだら?」
殊勝なメイの言葉に、今度はアイヴォリーが苦笑を浮かべる。もう一口カップの中身を啜ると、香りの薄く、やたらに渋いあの頃と全く変わっていない薄いコーヒーだった。
「あァ……まァ、そうだな。」
書類を傍らに投げ出し、無造作に横になるアイヴォリー。いつものようにメイを摘み上げて胸の装甲の上に乗せると、天井の落ちた遺跡の壁の上に、透き通るような空があった。
+ + + 「コイツは……そう、か……オレの字か。」
オレの、当たり前といえば当たり前すぎる言葉に、フェリシアの嬢ちゃんは深く、真摯に頷いた。そしてこの書類を書いた几帳面な字の主は、嬢ちゃんが捜し求めているはずの男、ハルゼイだったのだ。
「では……頼みます。」 薄い眼鏡の奥で、決意に満ちた鋭い瞳。いつか確かに聞いたことのある青年の声が頭の中のどこかで、確かに響いた。
「ハルゼイ……そうか。そういうことか。」
オレはそれで、メイリーが言う“島”を断片的に思い出した。紅茶の精霊、影を扱う少年、大きな斧を構えた小さな少女。沢山の仲間たちが──そう、確かに仲間だった──いた“島”。小さく、それでも強い白い輝き。
「少し……考えさせてくれ……。」
オレは肩を落として、嬢ちゃんの答えも待たずに保健室を出る。どうすれば良いのだろうか。
「メイリー……ナンでメイは、“ココ”にいるんだ……?」
オレの呟きは、唯空に吸い込まれるようにして消えた。まずは、彼女に聞いてみなければならなかった。
二十ニ日目
「よッ……と。」
オレは手の中で二振りのダガーをくるりと回すと、その鞘を払った。かなり細身に作り込まれた鋭利な刃が現れる。極々シンプルな、分かりやすいダガーだった。一切の装飾を排した実利的な、殺しの道具。
オレが依頼し、メイリーが預かっていてくれたものだ。コイツを打ったキーロの爺さんは相変わらずいい腕をしている。見た目は確かにシンプルだが、相変わらずオレの武器には注文が多い。特に前のダガーでも彼を苦労させたであろう左右の刃の微妙な湾曲は、その刃が細く鋭くなればなるほどに加工が難しくなる。ある程度の弾性を持たせておかなければ湾曲によって武器が攻撃の力で折れてしまうからだ。その発想は東洋のカタナに近く、しかもそれは短いダガーの長さで行われなければならない。カタナは主に力のかかる方向への弾性を持たせておけば良いが、オレのダガーの湾曲は左右の手で切り込む際の切りつける角度の差によるものだ。つまり、力がかかる方向とは垂直に湾曲させなければならない。明らかに得物の強度を落とすその仕様に、爺さんは今回もひとつの文句も言わずにこれだけのものを送ってきた。
「サスガはドワーフッてトコですかね……。」
生まれつき両手利きだったオレは、アサシネイトギルドの訓練によって矯正された他の連中よりも左右で器用に得物を扱うことが出来た。今から思えばスラムのチルドレンでしかなかったオレをあのクソッタレなギルドが“見初めた”のは、恐らくはこの特徴ゆえだったのだろうと分かる。自らの腕と引き換えにでも相手を倒すアサシンという職業には武器を扱える“利き手”が多いに越したことは無いからだ。それは腕に限ったことでなく、中には足で武器を扱う訓練を受けた者までいたのだから。
オレは両手利きの利点を活かして、両の手でコンパクトに休みなく攻撃を繰り出せる二振りのダガーを基本の武器として与えられた。アサシンは仕事に武器を持ち込めないことも多いが、それでも初めに何かひとつの武器を教えられる。それは上層部が個人の特性から判断して振り分けるものだ。果たして上層部の見立て通り、オレは二振りのダガーという極めて接近戦用のその武器に慣れ、彼らの期待以上にそれに習熟した。体術を絡めるようになってからは自分の隙をほぼなくし、相手の行動を押さえ込みながら毒で相手を徐々に削り込んでいくという戦い方を確立し、それで仕事を達成した。
今も身に付いている緻密な戦闘の組み立ては、その頃に培ったものだ。相手の挙動を見れば攻撃のパターンとそこから発生する隙は分かる。後は詰め将棋のようなものだ。自分がこう動けば相手がこう動く、というパターンを大まかにいくつかに分類し、その相手の行動によって次の自分の手が決まる。それを繰り返して行き相手の行動範囲をどんどん狭めていく。それによって最終的に相手が全く行動できなくなればオレの勝ち、という訳だ。戦闘が始まる前に無限にあったパターンは、オレが、そして相手が挙動を繰り返すたびにその中のどれかひとつに向かって収束していく。だが、それはどう転んでもあくまでパターンの中を逸脱することは無い。
ともあれ、そうやってダガーを得意武器として仕込まれたオレは、武器を持ち込める仕事の時にはアサシネイトギルドの中で精錬されたダガーを二振り携行していた。非常にシンプルな形状だったそのダガーは、それでも両手利きのオレが使うのに特化された、二本で一対になった専用のものだった。見た目からは想像できないほど良く出来たそれは、後から知ったことだがかつて神話の時代にドワーフたちに鍛冶の技術を伝えた竜族の末裔が打っていたらしい。薬漬けにされた伝説の存在は、それでも素晴らしい出来の得物を、ギルドの言うままに、唯自分を支配する薬のために打っていたのだ。
そのとき、与えられたダガーには左右の差があった。右専用と左専用の違いは素人が見てすぐに気付けるようなものではなく、本当に僅かなものだったが。両手でダガーを振るうオレたちは、それをただこう呼んでいたのだ。“ライト”と“レフト”と。
キーロの爺さんに頼んだのは、そういうダガーだった。“ライト”と“レフト”の呼び名は、これが当分オレの主力の得物になるだろうと踏んで使うものにしか与えない。それは裏を返して言えば、あの爺さんが打ち出したこのダガーが、それだけの質を持っているということだった。
「さて……。」
まずは“ライト”から。手のひらに傷をつけ、滴る血を刃に吸わせる。前のWidowとMariaの時にもメイリーに見つかってこっぴどく叱責されたが、これだけは迷信だと言われようが止めるつもりは無い。初めて手にする得物は、まず自分の血を吸わせておかなければいずれ自分に向けられる。実利一辺倒のアサシンたちが唯一実行する“儀式”。
人の命を奪うために存在するアサシンたちは、それほどに自分の命が失われることを恐れていた。それは滑稽ですらある光景だっただろう。もちろん上層部はそんなことは望んでいない。彼らが必要とするのはただ殺すための精巧な機械であって、生き残ることを欲する生き物ではなかったから。
だが、まだ生きる望みを捨てていない連中は、密かにこの“儀式”を行っていた。そして、その“儀式”を止めてしまった者たちは、上層部の望み通りに、任務を自らの命と引き換えに達成して死んでいった。当たり前だ。その“儀式”を止めるヤツは、完全に精巧な機械として完成されてしまい、自らの生死など顧みることはない連中だったのだから。それは、言ってみればオレたちの、小さな抵抗だったのだ。
「コレでよし……と。」
同じようにして“レフト”にも血を吸わせると、オレは手のひらに簡単に包帯を巻いた。そんなに深く傷つけた訳ではないから放っておいても治るのだが、メイリーに見つかると少々厄介なことになる。
しかし、このダガーもいいタイミングでオレに渡ってきたものだ。オレは“儀式”によって乱れた心を抑え込むことが出来た。昔から繰り返してきたこういう意味のない動作は、それでもオレを安心させてくれる。過去の断片を拾ってしまい、それによって動揺していたオレはいつもの冷静さをこれで取り戻すことが出来た。それだけでも“儀式”の意味があったというものだろう。
あのハルゼイという青年はもちろんのこと、彼と肩を並べて戦っていたオレ──それが厳密な意味でオレなのかどうかは分からないが──も、天幕と敵対していたはずだ。どうしてそうなったのかは分からないが、オレと一緒にいたメイリーも天幕からすれば同じような扱いだったはずだ。それがなぜ、天幕の実働部隊と共にいてオレの相方になっているのだろうか。無論天幕が敵対者を取り込むことは充分に有り得る。だがそれは、それが非常に有能な相手であったときに限るだろう。わざわざ天幕以外の連中も混じっているこんな場所に放り込むような相手をわざわざ取り込むとも思えない。第一、肝心のオレには天幕に吸収された記憶も、それ以前に天幕と戦っていた記憶もないのだ。
……連中に記憶を……消されたか?
そうして体のいい使い捨ての兵士としてここに送り込むことは簡単だろう。天幕の技術を持ってすれば。だがそれならば、こんな生温いところではなくもっと適したクソッタレな戦場はいくらでもある。
「まァ、今はイイ、か……。」
せっかく落ち着いた思考をもう一回乱してしまってはバカらしい。大体フェリシアの嬢ちゃんはハルゼイを探しているのに天幕に同行しているのだ。あの書類の存在を知っているのも彼女だけらしい。このまま隠し通すことも今の状況ならば簡単だ。鉄面皮には自信がある。メイリーとフェリシアの嬢ちゃんのためにも、今は大人しくしていた方が良い。
「アイ~?
そろそろ準備しないと遅れるよ~?」
扉の外からメイリーがオレを呼ぶ声が響いてきた。そろそろ定例会議の時間か。オレはいつもの人を食ったような笑みを頬に浮かべて、それが不自然では無いことを鏡で確認すると扉を開ける。ケープを肩に羽織り、メイリーにニヤリと笑って見せた。
「今日も頑張らなくっちゃね♪
お爺さんたちに負けてられないんだから!」
キーロの爺さんとキミドリの嬢ちゃんは今日がマリモ戦か。うっかり遅れはしたものの、今から戦ってアレに後れを取る二人でもないだろう。オレも負けてはいられない。
「よしッ、今日もキアイ入れてくぜッ!」
メイリーの頭を手で引っ掻き回すとオレは準備室を出た。
+ + + 大まかには予定通りに、記憶の断片が活動を始めている。ここからが実験の本番といったところだろう。 それとは別の問題だが、今日興味深い報告を目にした。別の平行世界に送り込まれている天幕の人間に同行している人物に関してだ。 青い髪をしたハーフエルフの侍。こんな珍しい存在はそういないだろう。あのフェアリーのお嬢さんと繋がりの深い彼だ。時間軸がずれているようで、彼はまだ森から出たばかりらしい。彼は後々“空白”とも出会うはずだ。これは非常に面白い。 さらにもう一人、面白い人間がいる。二次大戦の時代の独軍から飛ばされた衛生兵らしい。風貌からすれば学園にいる彼女の上司に当たる人間だと断定して間違いない。 送り込んだ“裏切り者”の失敗作に、監視をさせるとしよう。ハルゼイ本人は見つかっていないが、あそこから彼の友人が既に学園に飛ばされてきている。そろそろ彼が見つかった時のことも考えておく必要があるかも知れない。 ジンク=クロライドのことは、今でも僕の胸に小さな傷のようにして残っている。僕は、彼女のときと同じく彼を救うことが出来なかった。今は本部で冷凍睡眠で固定されているのだろうが、あれだけの精神操作を行ったのだから、一定期間ごとに“再教育”が必要だろう。でなければ崩壊してしまって使い物にならなくなる。彼を壊してしまったのは、ある意味僕の責任だ。だが、今彼はあの連中の手の中にあって僕からは手を出せない。ハルゼイが見つかれば、また彼は差し向けられることになるだろう。また同じことの繰り返しになってしまうのだけは避けなければ。 それは、僕の義務なのだ。僕が赦しを得るための。彼女と同じように。僕は彼を悪夢から救い出さなければならない。僕のために。二十三日目
「おぉらァ行くぜぇぇっ!!」
「来るッ!?」
身体を慌てて右に流した。微かに空気を焼くあの独特のニオイがすると、手甲の下で左手の毛が逆立つのが分かった。左を見やることもせずにオレはとっさに倒れ込む。そのオレの身体があった位置を、僅かに遅れて閃光が通り過ぎた。
「な……ナンだ今のはッ!?」
思わず呟いて後ろを振り返った。オレが背中にしていた校舎の壁に、一抱えほどの大きさで穴が開いていた。パリパリと音がして、未だに穴の周辺が放電しているのが分かる。思い出したように壁から遅れた瓦礫がひとつ、転がり落ちた。
「その程度で守り切れると思ってるのかにょー!!」
「……にょ?」
唐突に、その風貌から漏れた明らかに違和感に満ちた語尾に、オレは思わず聞き返す。とりあえず今のがシュートだというのは信じがたいが、もう一発まともに食らえば危険だということは、オレの本能が警告していた。すぐに攻撃に移って相手の動きを封じた方が良い、それは分かっていたのだが、その明らかにおかしな語尾にオレはどうしても聞き返さずにはいられなかったのだ。
「お前なんて頭脳も運動能力も──」
「テメェ、ボール足にくっついてるだろ。」
何やら流れがおかしくなってきそうなことに気付いたオレは、相手の言葉が終わらない内に遮って口を開いた。相手がナニモノか、分かってしまったのだ。
「言っとくケド、メモド○なんてヤラねェからな?」
相手が会話の流れを止められて黙ったのを良いことに、オレはさらに言葉を続けた。
「大体テメェ、くに○くんじゃあるまいし、サッカーで相手にボールぶつけてどーすんだ、え?
サッカーッてのは相手のいねェトコ狙ってボールツッ込むのが一流のストライカーじゃねェのかよ?」
相手の異様に出た前歯をそれとはなしに見ながら、オレは一歩相手に詰め寄った。
「…………。
どぉけどけどけぇぇっ!!」
いきなり相手が逆ギレした。タックルなのかナンなのか、すごい勢いでこっちに突っ込んでくる。オレはソレを躱して──
+ + + 「アイっ!?」
メイリーがオレを揺さぶって、オレははっと身を起こした。辺りを確認し、あの色黒のサッカー部員がいないことを思わず確認する。そこはオレの準備室で、当然ながらそんなヤツはどこにもいない。
「ッうぅわッ?!
ッて、ユメ……か……。」
「うん、アイ……すごくうなされてたよ……。……昔のこと……?」
メイリーが心配そうにおずおずと聞いてくる。オレが昔のことを思い出してうなされていたのだと思っているらしい。オレはとりあえず全力で首を横に振っておいた。
「120%違ェ。」
「なら、良いけど……。」
気にしているのだろうが、それ以上は聞いてもオレが話さないと思ったのか、メイリーはそれ以上追及してこなかった。オレからすれば、昔のことなんかよりも今の夢の方がよっぽど悪夢だ。オレは辺りを探し回って、昨日拾ったひとつの戦利品を見つけ出した。
「あァ、コレか……。」
白と黒の五角形が組み合わさった、昔懐かしいデザインのヤツだ。少し前から、公式試合ではこのタイプは使われなくなったと聞いている。だが、サッカーボールといえばやはりコレだろう。
「昨日のサッカー部員さん、怖かったよねー。」
イヤ、メイリー。タダのサッカー部員ならマダ怖ェコトナンかねェぞ。
心の中で呟いて、オレはボールを持ったまま窓から外に出た。辺りはまだ静かで、今日の活動までには時間があるようだ。オレはそのボールを足元に落とすと、軽く回転がかかるように足で蹴る。
蹴り出された白と黒のボールは、オレが蹴り出した角度から垂直くらいまで急カーブを描くと、オレの真左にある木に直撃してそれを、粉砕した。
「……え……ッ!?」
見事に
粉砕した。
思わず動揺して木に駆け寄ろうとしたオレを、幹をへし折られて倒れてきた木の上半分が遮る。慌てて避けたオレのすぐ横に、一抱えできそうな太い幹が転がった。地響きに、何が起こったのかと窓から顔を覗かせたメイリーが目を丸くしている。
「ちょっと、アイっ?
何があったの?
何したの!?」
矢継ぎ早の質問に、オレは転がっているサッカーボールから何とかして目を逸らせようと努力しながら答える。努力も空しく、オレの視線はその“何の変哲も無い”サッカーボールに釘付けのままだったのだが。
「えーと……フリーキック?」
ボールを曲げるのは、さして難しいことでもない。コツさえ分かっていればある程度曲げることは出来る。だが、素人のオレがここまでファンタジスタなピンポイントシュートを出来るというのは、どう考えても普通のボールでは無い。
「てゆーか、普通のボールで木は破壊デキねェだろ……。」
なぜかオレの脳裏にはタイガーな色黒のサッカー部員が浮かんで離れなかった。
二十四日目-Happy Valentine!-
「うん、これの使い方。教えて欲しいの。」
そう言ってメイリーがカバンから取り出したのは、一本の良く磨かれたスティレットだった。簡単な装飾が施されているが、それほど装飾過多でないところから見ても実戦に耐えうるものに見える。
スティレット、いわゆる“鎧通し”と呼ばれるそれは、一応は短剣の部類に入る。ただし突くために特化されたそれは、普通の短剣のように刃を持たない。形状だけを見れば短剣なのだが、ダガーのように斬ることはできないということだ。
それは、騎士たちが戦争で着るような完全鎧に対抗するために編み出された、非常に特殊な武器。騎士たちはそれを携行し、相手を突撃槍で馬から叩き落とした後に、相手に馬乗りになりそれを振るう。金属で全身を隈なく覆った相手に止めを刺すためには、鎧のパーツとパーツの間を刺し貫く必要がある。そこに斬りの動作は必要ない。
「コレ……な。」
オレは小さく呟くと溜め息をついた。フェアリーは、悪戯や護身のために、小さな針を持っているという。古い伝承に出てくるような、そんなフェアリーたちは。そういう意味では、武器としての使い方が同じであるスティレットは、一番彼女に使いやすい武器であるとは言えた。
だが、そんなことは重要ではなかったのだ。それよりも、オレの目に入ったのは、その装飾だった。恐らく元の素材は銀だったのだろう。シルバーならば、かつての彼女のサイズに合わせたとしても、ダガーの切っ先で充分にこれくらいの装飾はやってのけたはずだ。そして、いくらずっと一緒にいたとは言え、あそこにいたその時に、メイリーに護身用として武器を渡しておくということは、充分に考えられることだった。
「ソイツはな……そんなツモリで渡したんじゃねェぜ。」
こうして等身大としてみると、明らかにその装飾は荒削りだ。当たり前だ。これを、オレが刻んだときには、これはこの大きさではなかったのだから。要するにあの竹を割って作ったカップと同じだ。きっと彼女が自分自身のサイズを変えたときに、それに合わせてついてきたのだ。
島で、オレはこれを、恐らくは針か何かから加工して彼女に渡したのだろう。オレが好んでよく使うエルフ式の装飾が、何よりもそれを如実に物語っていた。毎日続く戦いの中で、せめて彼女が、魔法を使えないときでも無力だと感じずに済むように。それを振るうことはなくても、身を守るための何かがあるというその事実で、彼女が少しでも安心できるように。
きっと、その時のオレは、そんなことを考えてこれをメイリーに渡したに違いなかった。
「コイツはな……ナンつーか、オマジナイみてェなモンさ。
実際に振るうコトナンてなくてもイイ。でも、持ってリャ安心デキるだろ?」
「でもでもっ、ボクだって使い方を覚えといた方が良いと思うのよ?」
予想はしていたことだが、メイリーは不服そうな顔をした。まぁそれなら渡すな、ということになるのだが。
「ん……まァどうしてもッつーんなら、教えてヤッてもイイケドな。
でもよォ、オレの訓練はキビしいぜェ?」
片眉を吊り上げて、冗談めかしてオレは口の端を歪めた。自分でそれほど厳しいつもりはないが、オレの場合はそもそも基準が違う。素人が一から習うには厳しすぎるスパルタになってしまうのは目に見えている。
「ソモソモ使う機会ナンてねェぜ?
オレが前に立ってる限りは、な。」
まぁ自分で言っていてもなんだが説得力は無い。これだけギリギリの状態で毎日戦っていて無傷で済む訳がないのだが。
「でもでも、せっかくくれたから……少しでも、使えるようにしたいんだ。」
少しだけ俯いて、真摯な口調でメイリーがぽつりと呟いた。恐らくは、それをもらったときのことを思い出して。
「それにねっ、やっぱりアイとお揃いで戦えたら、楽しそうじゃない?」
一瞬だけ漂った陰は幻だったのか。ぱっと顔を上げた彼女は何が楽しいのか目をきらきらさせて胸にスティレットを抱き締めていた。オレは思わず苦笑を浮かべて肩を竦めて見せる。
「オイオイ、そんなにカンタンにオソロイにされてタマるかよ。ソレじゃオレは商売上がったりだぜ?」
喉の奥で漏れる笑いを噛み殺しながら、彼女の髪をかき混ぜる。上目で頬を膨らませて抗議するメイリーに、オレは軽くダメ押しをくれてやることにした。
「ふむ、じゃマズは筋トレからだねェ。
オレのダガーを持っただけで重いみてェじゃ、ソイツを使いこなすのはムリだからな?
ウデがムキムキになるまでキタエてもらうぜ?」
「ええっ?」
明らかに嫌そうな──まぁ当たり前だが──彼女の様子を見ながら、オレは彼女がそれを振るうようなことがなければ良いと、心の底から願っていた。
+ + + 「ちょっと早いかも知れないけど、ハッピーバレンタインってことでね♪」
いきなりメイリーから渡された小さな包みには、ご丁寧にも彼女が集めているリボンのひとつが可愛らしく結ばれていた。かなりの乙女チックさだが、まぁこればかりは渡してきた本人が本人だけに当然といったところか。
「むごッ!?
あ、あァ……ああああアリガトよ。」
どうも動揺が言葉に滲み出ている気がしないでもないが、当人のオレがそんなことを気にしている暇はなかった。辺りを必死で見回して、オレとメイリー以外誰もいないことを素早く確認する。
よし、ダレもいねェな。
メイリーに礼を言うのもそこそこにして、オレはケープの下にその可愛らしい包みを隠すと準備室に飛ぶようにして帰る。しっかりと三重に鍵をかけると、ようやくオレは吐息をついた。ケープの下に隠した包みを取り出し、それを机の上に置く。
すーはー、すーはー。
よし、落ち着けオレ。
これは……バレンタインチョコッてヤツか?
当たり前だ。メイリー本人がそう言っていた。
すーはー、すーはー。
よし、落ち着けオレ。
どうも思考が進みそうにないのでとりあえず部屋の隅を見上げてみる。
うむ、いつも通りだ。あまりキレイだとは言いがたい。
次に窓の外を眺めてみた。
うむ、いつも通りだ。静かだ。
いい加減進まないので、とりあえずダガーを抜いてみた。光に黒塗りの刃が鈍く反射する。これこそいつも通りだ。そのいつもの鈍い輝きに、オレは少しだけ落ち着いた。だが、明らかにその黒い刃は、机の上にちょこんと鎮座ましましている可愛らしいラッピングとは相反していた。
開けて……イイのか?
まぁオレ宛なのだから、オレが開けるべきというか、オレが開ける他ない。
維緒の嬢ちゃんなどは誤解しているようだが、実際にオレはこういう手のものをもらったことはほとんどない。仲は良くてもその他大勢の扱いか、そうでない場合はもっとドライだ。もしくは大っぴらにそんなものを渡せないような関係か。というか、そもそもそんなものをもらうほど長続きした例しがない。……まぁオレがさっさと他に行ってしまうからなのだが。
とりあえず……コレをどうするかだ。
そんなもん開けるしかないに決まっているのだが、それでもオレは誰もいない室内を優に五回は見回して、覚悟を決めるまでにかなりの時間を要した。
「ふむ。」
小さな包みを解くと、中にはカップケーキが入っていた。上には丁寧に一つ一つがハートの形に整えられたチョコチップが振りかけられている。手が込んでるな、とオレは一人ごちた。
「さて……。」
開けたからには、次は食うしかないのだが。
一口。
「……甘いな。」
甘い。決して不味くはない。美味い部類に入る。メイリーにこんな特技があったとは中々に驚きだ。
だが。
頭痛がするほど、甘い。
イヤ、メイリーの名誉のために言っておくが、非常に美味しく仕上がっている。
だが。
眩暈がするほど、甘い。
「まァ……こういうモンか。」
幸せと、僅かな苦笑を織り交ぜて、慌ててカップに注いだ味の薄いコーヒーを啜る。これならちょうど良い、か。メイリーの味の好みなら、確かにうまく焼きあがっていると言えるだろう。
「ま、バレンタインのアジッてヤツ……ですかね?」
オレは最後の一欠けを口の中に放り込むと、その甘すぎる幸せの味を噛み締めた。
……んん??
何が引っかかる。オレの中で、何かが警告している。
……ちょっと待てよ。ナニか忘れてねェか?
暫しの思考の後で、オレは自分に何が迫っているのかをはたと思い至った。
「マサカ、なァ……?」
メイリーがこの前言っていたこと。手料理を食わせてやるというその申し出に、オレは感心しながら快諾した。中々に殊勝な趣味があると思ったものだ。大喜びで腕まくりしていた彼女の姿がオレの記憶に新しい。
「このアジ付けで料理はヤベェだろッ!?」
料理の味付けが何となく想像できたような気がして、オレはそれまでの動揺も忘れて慌てて準備室を飛び出した。
二十五日目
「クソッタレッ!」
オレはいつもの悪態をつくと、手首に残ったワイヤーを切り捨てた。初撃の“クモの巣”は綺麗に掻い潜られてどちらにも掠らなかったようだ。
ダークエルフばりに黒い女の魔法攻撃が火炎を伴って着弾する。ケープの裾が炙られて火がついたのを見てオレは小さく舌打ちした。メイリーの魔法がオレの横を駆け抜けて相手にヒットしたのを見ながら、オレは相手の背後に回り込む。
「後ろがガラアキだぜェッ!?」
その得物はナギナタだろうか。槍と刀の中間、もしくはそれを組み合わせたような形状の得物は、今までオレが実際に手合わせをしたことがないものだった。ハルバードに似たその形状から、恐らくは同じような利点があるのだろう。それでなくても、いわゆるポールウェポンに属する系統の武器は、遠心力を威力に上乗せできるために、薄手の装備で立ち回るオレには分が悪い。しかも間合いが圧倒的に違うのだ。いかにして懐に詰めるかが勝負の分かれ目なのだが──。
「オイソコ、黒板消し。」
思わず上を見上げたナギナタ女に遠慮せず、オレは設置したトラップのトリガーを切った。オレとメイリーの周りを、僅かに白く煌く粉が舞い、視界が少しだけクリアになる。アッパー系のクスリを配合した、味方の補佐をするためのトラップだ。だが、その効果はオレが期待していたほどではない。クスリに耐性のあるオレはともかく、メイリーにも効果が及ぶこのトラップで、副作用が起きるような量を使う訳にはいかなかったからだ。
メイリーとガングロの魔法の応酬で、オレもナギナタ女も削れている。だが、炎の付加効果がある分、分が悪いようだ。
「マダだ、マダ終わッチャいねェ!」
オレは気を吐くと設置してあったワイヤーを解放した。荒れ狂う“クモの巣”が、今度は二人を捕らえる。だが、まだ相手の前衛を倒すには至らない。オレはもう一度毒づいた。もう手持ちのコマは使い切った。あのナギナタ女をオレがどうにかしなければ、後衛同士の削りあいになったとしても厳しいのは目に見えているのだが、せめて後二撃はなければ相手を落とせそうにない。オレは敗北を司る死神の足音を聞いた気がした。
「ッ!」
もう一度、相手の炎が手の中で膨らむのを見て、オレは思わず唇を噛み締める。後一撃すらも許されそうにない。
「ッ!油断しスギッてかよ!」
炎の塊に包まれて、オレは意識を失った。
+ + + 「あ~あ、負けちゃったね。」
メイリーがそれほど残念でもなさそうな調子で呟いた。昨日の戦闘は惜しいとかもう少しとかいう領域を超えて、明らかな完全敗北だった。要するに地力の違い、というヤツだ。
「あァ……悪ィ。」
寝転んで天井を見上げたままで、あまり反省もしていなさそうに呟く。まぁあれだけ完敗だと、にっちもさっちもいかないというか、反省してどうなるモンでもないといった感じだ。
こういうときに、メイリーの前向きな性格はオレを助けてくれる。昨日の敗北を引きずらず、もう一度今日からやり直せばいい。そんな彼女のポジティブな考え方は、多分にオレを立ち直らせる効果を持っていた。これがオレだけならば、腐って数日はうだうだやり続けるはずだ。
だから、オレもわざと気にしていないような素振りで呟いた。
「しッかし……マイッタねェ……。今日もあの連中かよ。」
昨日の敗北の後で告げられた、さらにオレに追い討ちをしてくれた事実。それは、今日もう一度、昨日のあの連中と戦えという非情な通達だった。
「うーん……どうすれば勝てるかな……?」
メイリーが首を傾げて、オレの見上げる天井を一緒に見上げた。オレから言わせれば、地力が足りないというのは数日でどうにかなるものでもない。つまり、昨日の今日でもう一度戦っても勝てる訳がないというのが基本的な意見だ。
だが、天幕からの命令で負け続ける訳にはいかないのだし、そもそも魔石の作製師であるメイリーが戦闘で負けなくて済むようにするのがペアの片割れであるオレに課せられた役割だ。第一、いくらメイリーが腐らない性格だとはいっても、連日ボロクソに負けるのではいい加減ヘコみもするだろう。オレがどうにかしなければならない。
「ッつッてもなァ……。」
オレが出来ることはそれほど多くは無い。搦め手に困ることは無いのだが、どちらにしろそれは補佐の領域だ。あくまでも威力のメインはメイリーの魔法攻撃であり、それが相手を削る手助けをするのがオレの役割だ。後は如何にして相手の攻撃がメイリーに向かうのをオレが防ぎ、盾としての役割を全うするか、なのだが……。
「あのエモノは……キビしいねェ……。」
ハルバードと同じく、あの一撃は痛い。数発もらうだけで、いくらオレがガードを固めていても致命傷といったところだ。オレは小さく溜め息を吐いた。
「まァ……雌伏の時、ッてヤツですかね……。」
地力が足りないなら、それを認めるしかない。地力が充分なレベルになるまでは、どうにか耐えるしかないのだ。天幕全体で移動の許可が下りれば、それまでの時間をもう少し楽なところで稼ぐことも出来るだろうが、少なくとも今日明日は凌がなければならないのだ。
そう言えば、今までにもこんなことがあったような気がする。オレの記憶にないオレが、オレの記憶にない場所で。いつもエッジを見極めながら、どうにかして毎日を凌いでいた、そんな日々。
「……メイリーは、“ココ”に来る時に……迷わなかったのか?
コワくなかったのか?」
思わず、オレがあの書類を──フェリシアの嬢ちゃんが持っていた、天幕に対する反攻計画書を──見てから、ずっと思っていた疑問が口をついて出た。あの時のオレは、ハルゼイという青年と同じくに天幕に敵対する立場だった。メイリーには直接関係はなくても、天幕に追われるオレとともに生活していた彼女が、オレが突然に姿を消し、それを追って“ココ”にやってきたその心境はどうだったのだろうか。
「…ココ? この世界のこと?」
僅かにズレた彼女の答えに、オレは小さく首を振る。そう、メイリーにしてみれば、元いた場所から全く異なる世界である“ココ”へとやってきた、それだけでも大変なことだっただろう。天幕だとか、敵味方だとか、そんなこと以前の根本的な問題として。だが、彼女は首を振ると、その後に言葉を継いだ。
「…うぅん。
全然不安がなかったわけじゃないけれど、アイが居る場所だって聞いたんだもの。だからボクには、恐れる必要なんてない。」
ゆっくりと、その時の自分の気持ちを確認するようにして、真摯な瞳で。唐突に姿を消したオレが、そこにいると聞かされたから。ただ、それだけの理由で。それが本当のことかも分からず、オレの敵から聞かされた事実であるというのに。
それでも、メイリーは“ココ”へやってきた。
「……ふゥ……。」
オレは小さく息を吐くと目を閉じた。恐れることもなく、ただオレがここにいるからという理由で、オレを追ってココへやってきたその張本人に、少しだけ涙腺が緩みかけたその証拠を見られたくなかったから。
「シンプルだねェ、メイリーは。」
口の端を歪ませて、いつものようにして冗談めかした口調で。それでなければ、悟られてしまいそうだったから。故郷の森から飛び出したお姫サマは、島どころか世界を超えて“ココ”までやってきてしまった彼女のその答えは、それだけにシンプルで、迷いも、恐れもなかった。
「……勝たねェとな。」
出来ることは多くは無いが、まだその全てを試した訳でもない。負けを認めて引き下がるのは、全部試してからでも遅くは無い。
ずっと、そうやってきたじゃねェか。なァ?
島にいた頃の、オレの知らないオレに向けて、オレは小さく心の中で、そう問いかけた。
+ + + やれやれ、困ったお嬢さんだ。実験体にあれを見せてしまうとはね。トリガーを引くのが早すぎれば、充分に狙いを定められずに相手を捉えることが出来ないのだけれど。
だが、もう動き出してしまった。
後は埋めていた断片が連鎖的に動き出して次第に結合し、仮初めとして与えた封印用の今の魂を覆い尽くしてしまうだろう。後はもう自動的なものでしかなく、単に時間の問題でしかない。完全に修復されてしまったときに、もう彼は偽り続けることはできないだろう。後は、どちらかを選ぶしか残されていない。早過ぎた感はあるものの、こればかりはどうしようもないだろう。
さらに、“空白の記憶”が役割から解放された後に出会うはずの、青い髪の侍もそろそろ監視しておかなければならないだろう。“黒い羽”からの報告だけで済ませていたが、あの勝手な失敗作はすぐに穢そうとする。強い意志の持ち主だから心配することは無いのかもしれないが、それで未来を勝手に変えられでもしたら、また書き直すのが手間だ。“黒い羽”には良く言い聞かせておかなければならないな。堕ちた魂に影響されて腐った蜜柑の喩えの通りになってしまっては困るのだから。
だが、困ったことに、僕自身が雑事に追われて時間が取れなくなるようだ。やれやれ、僕としては出来ることならば、ずっと此処から眺めていられればそれに越したことは無いのだけれど。
-血色の文字で綴られた走り書き-
二十六日目
正直なところ、どうにか耐えたというのが実際のところだろう。第一前日こてんぱんに負けた相手にもう一度戦って、負けない方がどうかしている。それからすれば手持ちのコマでどうにか引き分けに持ち込んだ昨日の結果は大金星と言って良い。だから、それなりにオレとしては満足だった。急にどうこうできるものではない。少しずつ上乗せを続けて確実に進むしかないのだから。
だが、それは天幕の意図に沿うものでないのも確かだ。天幕の求めるものはただひとつ、終わりなき戦いに勝ち続けることなのだから。
「メイリー、良くやったな。オマエはガンバッたさね。だから、少しずつ積み重ねて、次に来る日に勝てるようにしていキャソレでイイ……。」
たとえ、天幕が望むものに今及んでいなくても。オレはメイリーの頑張りを知っている。だから疲れて準備室で転寝をしている彼女の髪を撫でながら、そう小さく呟いた。
「タマニャ……休まねェと……ヤッてられねェよな……?」
頬杖を突いたままで、少しだけ暖かくなってきた窓越しの光が閉じかかってきた目蓋の裏を焼く。今日も厳しい相手だ。恐らく昨日の相手よりも厳しいだろう。でも、だからこそ、今この瞬間だけは、彼女と二人しかいないこの柔らかな、穏やかな空間を少しでも感じていたかった。
「オレも……少し疲れたかねェ……?」
答える者は誰もいない。それで良い。わずかなこの時は、静かな休息のときなのだから。オレはメイリーと並んで午睡みに落ちていった。
~ わずかな休息 ~
+ + + 休息は必要だ。だが、それは次の戦いのための充足期間だ。次の戦いを見据えてもらわなければね。
とはいえ、厳しい時もあるかな。僕も少し疲れたみたいだ。紅茶でも飲んで気分転換することにしようか。
~ 机に置かれた緋色のメモ ~
+ + + 「どうして、私を選ばないのだ? あの時、お前は私に言ったではないか。“二人で遠くに逃げよう”と。あの言葉は嘘だったのか?」違ェ、違ェよエリィ。分かってくれよ。「分かるも何も、お前はその小さな妖精を選んだのだろう。私ではなく。」そうだ、そうだケド……コイツには、メイにはオレが必要なんだよ。分かってくれよ。「違うな。お前が、その少女を必要としているのだ。 私ではなく、その少女を、お前が、必要としているのだよ。それすらも気付けぬほどに、純粋たる風は落ちぶれたのか?」エリィ……。 ~ 夢 ~
+ + + 「この教会には私しかおらぬ。何分辺境故な。全ての生活の雑務を自らでこなさねばならん。国教ではない故に国からの保護も行き届いてはおらぬ。だが村では唯一の教会だからな。絶やしてしまう訳にも行かぬのだ。」
そう語りながら、かつて自分が宗教者として学んでいたときからここの教会にいて、その時には人格者として名高い司祭が住んでいた、そんなことを歩きながら彼女は語った。中庭に出ると、左手には同じように石造りの少し大きな建物がある。庭の中央には井戸。まだ乾ききっていない朝露に法衣の裾を濡らしながらエリィは建物へと彼を案内した。
「ここは教会の心臓部とも言える場所。つまるところの教会だ。村人が安息日に集まり祈りを捧げる。中央の祭壇で私が進行を務めるという訳だ。正面の締まりのない間抜け面が我らが神だよ。」
~ エリィ ~
+ + + もう一度二人で優しく微笑み合って、心を繋げて。今までやってきたように強く、優しく。沈んでいく夕日に目を細め、アイヴォリーは彼女を落とさない様にそっと立ち上がった。
「ソロソロオレたちも行くか、お姫サマ。竜か、不死鳥か。次はナニが見てェよ?」
「ボクはアイが行く所なら、どこでもいいよ。」
その答えに思わず苦笑したアイヴォリーは、ケープに付いた砂を払うと島の奥を振り返る。幻でない真の島。そこにある筈の遺跡。その中では宝玉に近い物が眠っているという。
「シーフが宝モノ見過ごしたとあッチャ、名折れだよな?」
くすりと笑ったメイの髪を撫で、藍に染まり行く空を見上げる。二人なら、どんな壁だって越えられる。どんな遺跡だって制覇出来る。そこには、また新しい二人の冒険がある筈だ。
「ヨシッ、決まった。行くぞ、メイッ!」
「うんっ、どこまでも一緒に行こう♪」
目を閉じた二人は、未だ見ぬ冒険を思い描く。二人で創っていく冒険を。
砂地に微風が吹き、砂が巻き上げられた後にはもう誰もいなかった。
~ “最終日” ~
二十七日目-White Day, and Birthday-
「あァ、マイッたねェ……。」
オレは準備室に戻ることも出来ずに、自分の天幕の中で一人頭を抱えていた。そもそもこういうことには慣れていないのだ。
「まァどうにもならねェよなァ……。」
独り言を呟いて、諦めの溜め息をつきながら何ともなしに肩をすくめる。もう準備は出来ているのだから、後は実際に実行に移すだけなのだが。その踏ん切りがつかないオレは、もう今日何度目かも分からなくなった溜め息をついた。
幸い、ここではいつかのようにして材料に困ることはない。後はどこかで覚えた技能でそれを加工すればいい。
だが問題は、その後どうするかだ。
「あー。」
どうしようもないオレはケープの下から小さな包みを出した。黒いリボンで口を縛ったその袋の中には、かなり質のいいディンブラの葉を細かく刻んで焼いたクッキーが入っている。どこで手に入れたものかも思い出せないが、最高級のディンブラだ。同じ重さの金と等価値と言われるほどのそれはもったいなくて使うことも出来ずに、未だにオレの荷物の中に開封すらせずに缶のまま入れてあったものだ。オレ自身はそれをいつ荷物に投げ込んだのかも覚えていないが、未開封だった訳だし風味はまぁ落ちていなかった。使うならば今しかない、誰かにそう背中を押されたようなそんな気がして、どこか見たこともないような王宮の刻印が入ったその缶を、オレは初めて開けたのだった。
種はナイフで刻んで雪の形にした。これだけ暖かくなってきたのに雪の結晶も何もないと、そう自分でも思ったのだが、何となくこの意匠が贈り物として最適なような気がしたのだ。上にはパウダーシュガーを振って白く飾り付けて。甘いものが好きな彼女にはちょうど良いだろう。上手く焼きあがってくれた中から、割れたもので味見してみたが、さすがに素材が良かったからか出来は非常に良い。まぁ自分で言うのもなんだが、クッキーに関しては才能があるらしい。
「コッチも……まァまァかねェ。」
レモンの果汁をスポンジを焼く前に混ぜて風味をつけたケーキ。甘みを抑えたクリームに、砂糖漬けしたオレンジをカットして適当に飾りつける。こっちは才能がないのか、いまいち地味なのだが、これ以上何かを増やすと味のバランスが崩れる気がしてここまでにしておくことにした。
「ローソクは……サスガにねェよなァ……。」
呟いたオレをそっちのけで、シェルが珍しそうにケーキを覗き込んでいる。まぁ今回に関してはコイツに感謝しなくてはならないだろう。何せ紅茶の葉以外の素材はほとんどシェル経由で天幕から送ってもらったのだから。今回は生存競争が主目的ではないから、その辺の支援は自由が利くらしい。これが食料を自前で準備しなければならないようなエンタメならば、これだけのものを送ってもらうにはかなりの交渉が必要だっただろう。そういった意味では案外今の状況はラッキーな部類に入るのかも知れなかった。
「んー、そんなに珍しいかよ?」
「うん、僕は誕生日とかないからね。まぁそういうイベント自体が珍しいって言うかさ。ちょっと羨ましいかな?」
シェルにしては殊勝なこともあったものだ。オレには今のコイツの態度の方がよっぽど珍しい。天変地異でも起こるんじゃないかと思うくらいだ。
「まァ、じゃあそのウチオマエのもヤッてやっか。」
相変わらず物珍しそうにケーキを眺めているシェルにそう振ってやる。まぁずっとこの殊勝な態度ならば本当に考えてやっても良いと思えるほどだ。
「僕は自分が生まれたのがいつかなんて分からないよ。大体キミたちの時間の流れに僕を当てはめてどうするのさ。僕はすごいお爺ちゃんになっちゃうよ?」
「まァまァ、そういうなッて。」
何がおかしいのかくすくす笑いを漏らすシェルにオレは肩をすくめる。そう、誕生日が分からなくたって、祝うことは出来る。自分が生まれたことを。仲間が生まれたことを。大切な者が生まれたことを。でなければ、出会うこともなかったのだから。
「その代わりにな……オイ、ミミ貸せ。」
オレはいつまでも珍しそうに──もしくは羨ましそうに──ケーキを眺めているシェルにそっと耳打ちした。ろうそくがなくても、もっと派手なヤツはどうにかなるはずだ。
+ + + 「アイ、どしたの?」
天幕の毎日の定例会議が終わって、メイリーをオレは校舎の隅に呼び出した。壁に背中を預けて待っていたオレは、いつもの笑みを浮かべたままでメイリーが持ち歩いているカバンを指差した。
「ソイツ、開けてみな?」
自分で人のカバンにこっそり忍ばせておいて開けてみなも何もないとは思うのだが、まぁこの際そこは棚に上げておくことにする。
「……あっ……。」
カバンを覗き込んだメイリーは、僅かな間の後で小さく声を漏らした。黒いリボンが結ばれた、差出人のない小さな袋。
「……さっきダレだかが入れていったのに、気づいてなかったみてェナンでな?」
明後日の方角を見上げながら必死で嘯くオレ。正直コレが限度だ。うん。
「まァナンだ、ナンかのお返しじゃねェか?」
「うふふ……。」
忍び笑いを意味深に漏らしたメイリーに、思わず顔を歪めてオレはぎこちない笑みを返した。やっぱりというか何というか、はっきり言って柄じゃない。
「じゃあ、その誰かさんにお礼を言っとかないとね?
“ありがとう”、って。」
ありがとうをやたらに強調して、彼女はオレにそう言った。目を逸らすと、これ以上耐えられそうにないオレは早く話を逸らすために、メイリーの肩を叩く。
「次は、オレからのプレゼントだ。」
木の根元に置いてあったテーブルを隠していた光学迷彩を剥ぎ取ると、小さな机と二人分の紅茶。シンプルなケーキ。
指をぱちりと鳴らして合図を送る。シェルはしっかりと千里眼の魔法で見ていてくれたらしく、オレの頼んだ通りにやってくれた。
大きな音とともに、校舎の間から空に火花が打ち上げられた。魔法で白く輝く文字が空に刻まれて、簡単な言葉が意味を成す。
「ハッピーバースデー、メイリー。」
オレはいつもの笑みをどうにか浮かべたままで、彼女に出来る限りの心を込めて、そう言ってやることが出来たのだった。
二十八日目
「あぁ、それと手甲の方は夕方まで待ってくれ。ダガーを中に仕込めるようにする細工が少し複雑でな。」
朝の会合でオレにそう言ったミラーシェードの男、アキラ=コガネイ。オレからすれば謎の男だ。そもそも、天幕のルールのひとつして決められているものに、団員は何かしらの色に由来した名前を名乗ることというものがある。元々の通り名が“純白の涼風”であったオレも、ただ身を隠すために名前を変えただけ、という訳でもなかった。盗賊団を名乗りながらもその歌舞いた実態に、心意気を汲んだのだ。だから敢えて、もう一度新たな名前を自らに付けた。もっとも、それは多分に自嘲と自戒を込めた名前になったのだが。
その、色にまつわる通り名の付け方にも、ある程度決まったルールがある。少なくとも活動中の団員と同じ色を使用しない、というものだ。無論これは厳格な意味での制約ではなく、最終的な判断は当人に任されているのだが、同じ色がバッティングしたときに混乱を避ける意味から、今までに使われたことのある色を使った者はいなかった。どうせ色というものは、同じような色でも幾通りもの呼び方が出来るものだ。少しだけずらして自分の気に入った表現にしてやればそれでいい。
そしてもうひとつが、永遠に天幕の首領である“金色”とその腹心である“銀”の名を用いない、というものだ。金と銀は彼らにだけ許された色のはずなのだ。あのアキラという男がそれを知らないはずはない。まさか本名だとは思えないが、本名ならばそういった名前の人間に天幕が干渉するのには、何かしらの意味があるはずだった。
「アイツ……ナニモンだ……?」
オレは机に置かれた一対のレザーグローブを見やって目を細めた。盗賊が使うにしては明らかに重厚すぎる代物だ。見た目に関しては、ほとんど前回のレザーグローブと変わらない。手首の部分の複雑な構造もそのまま継承されている。ほとんど革製のガントレットと表現するべきこのグローブは、それでも手の動きを妨げないためにお互いが干渉しないようになっている。しかも、腕を最後の盾とするオレのこの“篭手”は、防御姿勢を取って腕を立てたときに、手の甲の部分が腕の部分を覆い隠すようにしてスライドするのだ。逆では意味がない。上から切り込まれる刃を滑らせ、外側に逃がすためにはより上になる手の甲が、腕よりも外側になるようになっていなければならないのだ。そのためには、手の甲の部分の保護パーツを、手首の反りに合わせて稼動するようにしなければならないのだった。
だが、あの男はそれを平然と実現している。オレが改良に改良を重ねてようやく作り上げたこの品を、その最も複雑な部分まで、あの男は忠実に再現してみせたのだ。しかも、その硬度は前回の手甲の比ではない。より強靭に作り上げられたこの革の鎧となる外側の部分は、その内側の柔らかい“グローブ”の部分と確実に結合させるために、前回よりも難易度が上がっているはずだ。だが、その完成度は前回を明らかに上回っていた。オレがメイリーくらいにしか見せたことのない内側のポケットの構造も、前回と同じように手首の内側からワイヤーが引き出せるようになっており、しかもその容量は前回よりも大きく取られていた。容量が大きくなったということは、オレにとってはまさに“手”数が増えるということを意味する。死活問題なのだ。
「このウデも……タダモノじゃねェよな……。」
オレは手甲を前にして、あの男の出自をいぶかしんでいた。
二十九日目
現れた光の輪。いつか、どこかでオレは、それを手にしたいと願ってやまなかった。宝玉を持つ者だけに許された、最後の扉を。次々と発って戦いを挑む仲間たちと、肩を並べて自分も戦えるあのフィールドへの、扉。
だが、それは叶わぬ願いであり、宝玉を奪われたオレには、もう手に入れることが叶わないものだった。自分を倒して宝玉を持って行けと言った小さな妖精に、オレはそれは不可能だと答えた。“ここ”が自分の居場所だ、と。彼女のいるそここそが、そうなのだと。たくさんの仲間を、世界を、全てを捨てて、そのときにオレはたった一つ、“彼女”を選んだのだ。それは明らかに自分の記憶ではなかった。だが、誰かから伝え聞いたのでもなかった。まるで、誰かの記憶を記録した映像を見せられたかのようにして、それをオレは“知って”いた。
告げられた秋休み。第三教師を倒した者たちの頭上に現れた光の輪。突然訪れた休止。
そういったものに、天幕の連中も慌てふためいていた。何せオレたちは状況を見て第三教師──クリスとそれに憑いているクレア──に戦いを挑むために準備をしている最中だったのだ。オレたちの準備が整う前に誰かが抜けるであろうことは予想されていたことで、それさえも織り込み済みだった。だが、その後に知らされた状況は、天幕の、少なくともオレたちの予想は超えていたらしい。
「……あー、済まないッ!トラブルが発生したッ!!輪に触れれば次の舞台へと自動的に移動するはずなのだが、教頭の話によるとどうやら次の舞台の単位争奪用カスタマイズが完全には終わっていないようなのだッ!! それが完了するまで――そうだな、冬……いや、秋休みかッ!秋季休暇とするッ!!学園内の全ての活動は明後日までとするッ!!申し訳ないがゆっくりと体を休めて欲しいッ!以上だッ!!……おい教頭おま」――プツンッ脳内放送が終わった。 第三教師を倒した者たちが受け取ったメッセージは瞬く間に広がった。そして僅かに遅れるようにして、正式に告知が出された。告知によれば、後自由に行動できるのは二日間。それ以降、当面この学園は完全に閉鎖される。それが一時的なもので終わるにしろ、永久的なものになるにしろ、全ての学園内の人間は一度ここを追い出されることになるらしい。
「マイッたねェ……。」
溜め息を吐いたオレを、小さな机を挟んで赤い瞳が見据えていた。ヤツは冷笑を口元に湛えたままで、オレのことを何か面白い見世物か何かであるようにして、先ほどからただ眺めている。
「まぁ大丈夫さ。あの学園での時間の進行速度からすれば、いずれこうなることは分かっていた。それすらも僕の中では“織り込み済み”だよ。」「テメェら上の都合ナンざオレニャどうでもイイんだよ。オレ自身も、回収する気になリャこうやって回収デキるんだろうさ。
……だケド、テメェが勝手に呼び出したメイリーはどうなるッ?
アイツは元にいた世界からテメェが転送したんだろうッ!
このママじゃメイリーは帰れねェだろうがよッ!?」
そう、メイリーは元々あの世界の住人ではない。恐らくは“島”のあった世界の、どこかの森から出てきた。そして、彼女は自力でその世界へと帰る術を持たない。オレが出奔したアサシネイトギルドのあったあの世界へと。だが、そのオレの言葉を聞いてクソッタレた運命の魔術師は冷笑を深くしただけだった。
「そんなこと、僕は知らないね。彼女が、君がそこにいるなら自分も行きたい、そう言ったんだ。帰れなくても良い。ただ、君に会えるなら、とね。
いやはや、羨ましいほどだよ。泣かせるね?」
そう言って喉の奥で笑いを殺しきれずに漏らして僅かに俯いたコイツを、オレは思わず殴りそうになった。恐らくは、ヤツが持つ魔筆の力で阻まれるだろうと分かっていても。だが、ヤツはそれさえも分かっていたかのようにして、オレが動く前に緋色の時代がかったローブから細い手を出し、人差し指を立てて見せた。
「無駄なことはしない主義だろう。……それよりも、そんな君に打ってつけの提案がある。もし、あの学園が再開されるようなことがあったら、君は彼女とともに、天幕の人間としてあそこへ戻れ。それを約束出来るならば、君たちを、君たちがかつていたことのある場所に僕が戻してやってもいい。そこは、少なくとも彼女は知っている場所だ。
どうだい、悪い提案じゃないだろう?」
それからヤツは、自分で立てた自らの人差し指を見やって、小さく“気障な仕草だな”と、明らかにオレに向かって言った。オレの真似をしたつもりだったらしい。だが、オレはそんなことに一々構ってやるほどの余裕はなかった。
「……天幕の人間として、ッつーのはどういう意味だ。」
「何も。今まで通りということさ。お望みならば、もっと素敵な小道具を用意しておいてあげても良いのだけれどね。」
それは魅力的な提案だった。どちらにしても、学園から退去させられるということになれば天幕はオレを回収するだろう。そして、彼らにメイリーを回収して戻してやる義理はない。
そうなれば、彼女は何一つ頼るものもなく、眠る場所さえない状態で、あの世界に放り出されることになる。たった一人で。そしてオレは、またしても彼女を放り出して、“誓い”を破ることになるのだ。
それだけは、何としても避けなければならなかった。
「……少し……少し、考えさせてくれ。退去させられるまでニャ決める。今日一日でイイ。……考えさせてくれ。」
コイツらのやることだ。絶対に今まで通りなどという訳はない。だが、今ここで、コイツらの手を躱し、なおかつメイリーを一人にしない方法など思いつくはずもなかった。
「良いよ。どうせ“未来”は見えているのだから。精々考えるが良いさ。
……おっと、そろそろ帰ってもらわなければね。退去までは、君たちにはあそこで足掻いてもらわなくてはならないのだから。」
唐突に、そうやってヤツは話を打ち切った。いつの間にかその右手には紅の魔力を撒き散らす“それ”が握られていて、ヤツはそれで宙に文章を綴り始める。
「さぁ、戻りたまえ。……君の答え、楽しみにしているよ?」
オレの視界はブラックアウトした。
+ + + 「アイ~?
今日の相手なんだけ……」
天幕の“真の本部”から転送されたオレの目の前に、彼女がいた。目を丸くしてオレをすぐ目の前に。
「あ……アイ?」
どうやら転送されてくるところを見られてしまったらしい。極々短い時間ではあるが、完全に実体化されるまでには間がある。恐らくは、渦巻く魔力の中で半透明のオレが立っていたようにして彼女には見えていたはずだ。
「……悪ィ。オヨビがかかってな……?」
何とも間が悪いところへ転送しやがったものだ、あのクソッタレは。もしくは、これも当然のようにして“織り込み済み”だったのか。
「う……うん、ちょっとびっくりしちゃっただけだから……。
それよりね、今日の相手なんだけど……。」
そういって彼女は、今日の対戦相手であるケルベロスの話を始めた。地獄の番犬。三つ首で炎を吐く魔獣。オレも一度見たことがあるだけだ。そのときは幸運にも、オレが実際に戦う必要はなかった。先に向かった連中が肉片に変えられてその三つの首に咀嚼されているのを見て、上は退却することにしたのだ。
だが、オレはそんな彼女の話を空で聞き流していた。話している当の彼女が、そもそも上の空だったのだ。俯き加減で、微かに瞳を潤ませて、それでも平静を装って。明らかに、さっきのオレを見て彼女は動揺していた。
そう、ヤツは間違いなく、このタイミングを見計らってオレを送り返したのだ。
「メイリー。」
「ん?」
オレの呼びかけに、どうにかして瞳の揺れを隠しながら彼女はオレを見た。オレの答えは決まっていた。それが、たとえそれしか選べないように誘導されたものであったとしても。
「ナニも言わなくてイイ。
……心配すんな。オレはメイリーを置いて、ドコへも行きやしねェ。」
オレの答えは、最初からそうやって決められていたのだった。
三十日目-学園最終日-
「さて……じゃあこれで君たちは、今日が終わり次第“約束の地”へと転送される。」
オレはそのクソッタレの言葉に軽く頷いた。メイリーも、訳が分からないままにとりあえずオレを信じることにしたらしい。まぁオレたちのそんな実情も恐らくは把握しているのだろう、緋色のローブをまとって魔術師然とした皮肉屋は軽く頷き返すと、その右手に握った小さな魔導器で数言の文章を宙に綴る。ヤツとオレとの間に刻まれたその一文は、赤黒い輝きを残しながら光の粒子となって淡く消えた。
「アイとボクを……あの街に送ってくれるって本当なの?」
「大丈夫ナンだろうな?」
オレのその問いを、まるで馬鹿馬鹿しいとでもいうようにして運命の調律者を名乗る男は鼻で笑い飛ばした。その赤く光る邪眼がオレを射すくめようとするかのようにその呪われた光でオレを見やる。だが、その光は最早オレには何の影響も及ぼさない類のものだった。
オレたち二人を、このクソッタレは、オレたちが“島”から戻ってきたときに滞在していた街に戻してくれるらしい。そこにはオレが武具を修理に出す顔見知りの腕の良い鍛冶や、メイリーのお気に入りのパン屋、冒険者たちが集まるギルドもある。オレは実際にそこにいた実感はないが、それでも戻ってきた記憶によってその街の情景は“知って”いた。あそこなら大丈夫だろう。街の暮らしに飽きればちょっとした冒険に出ることも出来る。悪くない街だ。
「当たり前だよ。僕が書き残したものは、事実として厳然と存在する。例外などないさ。」
そう言って肩を竦めると、赤い道化師はオレに背を向けた。もう用は済んだらしい。
この学園からの退去が今日に迫っていた。オレは昨日の彼女の瞳を見て、このクソッタレに対する答えを決めた。シェルを通じてそれを知らされたこの男は、天幕の学園からの撤退を前にしてオレの前に現れたのだった。
たとえもう一度天幕に戻ることになっても、オレには悔いはない。あのとき、あの場所で、世界の願いを振り捨ててたった一人を選んだのと同じようにして、オレはもう一度彼女を選んだ。何を捨てたとしても、もうメイリーを一人にはしない。それは、オレが彼女に出来る、唯一の、“妖精騎士”としての誓いだったのだから。
「……強く、なったね。アイヴォリー=ウィンド。君は、もう僕の実験体ではないのかも知れない。」
オレに背を向けて立ち去ろうとしていた赤いローブが空を見上げて足を止めると、ふと思い出したようにしてそう言った。背を向けたままのヤツの表情はうかがうことが出来ない。だが、どちらにしてもヤツの深層は分からないのだろう。オレがいつもの笑みで心を隠していたように、イヤ、それ以上にコイツは自分の心を隠しているのだから。
「君は僕が与えた運命を超越した。それは僕が望んでいたものだ。僕自身の望みが叶えられるかはまだ分からない。だけど……きっと君は、僕の希望になった。
とりあえず、君の試練は一度此処で終わりにしよう。もう一度呼ばれるまでは。それまでは、望んでやまなかった平穏を……僕が与えようじゃないか。」
それは、決してこの男から聞ける類の言葉ではなかった。いつも皮肉な笑みを浮かべ、全てを嘲笑してアウトサイダーを気取っていた、捻くれ者のコイツから。だが、だから、オレはいつもの笑みを浮かべたままで、ヤツの背中に言葉を投げつけた。
「オレはテメェの希望にナンざなってやるツモリはねェ。欲しいモノがあるんなら、人でテストナンてしてるんじゃねェよ。自分自身で、あのクソッタレた書斎から出てつかみやがれ。
……ま、天幕の命令ならマタ出てヤッケドな。ソイツはアンタとの約束だからよ。」
「……そうそう、メイリー=R=リアーン。君のその胆力には驚嘆する。素晴らしい働きだった。尊敬するよ。君がいなければ、彼も此処まで到達できなかっただろう。君には、感謝しているよ。」
「ボクもお礼を言わなくっちゃ。貴方が教えてくれたから、ボクもここまで来れた。貴方がいたから、アイと出会えた。ありがとう。」
そう言うと、あろうことかメイリーはクソッタレに対して頭を下げた。鼻を鳴らす音が緋色のローブの背中から聞こえた。いつものように、下らないとでも笑ったのだろう。
「ふふ、照れ屋さんなところもアイとそっくりなのね?」
「
“ヤレヤレ、仕方ないな。”お嬢さんは。
ふふ……“島”が終わり、僕が出向いた世界が終わり、そして此処ももうじき終わる。でもきっと、君たちの旅は終わらないだろう。僕が書き続けるまでもなく、ね。」
ヤツはそう言って、右手のペンに目をやった。小さく含み笑いが聞こえた。
「こんなものでは……何も変えられない、か。だけど、それでも、僕の武器はこれ以外にないんだろうな。」
そう独りごちると、ヤツはその強大で矮小な玩具をいつものごとく振るって宙に文字を描き出した。ヤツがどうするのかは分からない。だが、それはヤツ自身が決めることだ。
「じゃあね、“僕の欠片”よ。もう、会うことはないのかも知れない。」
「あばよ、“オレたちの中のひとつ”。へッ、どうせマタすぐに会うコトになるだろうさ。」
“オレたち”はつながっている。“オレたち”は繰り返す。だから、その運命の預言者の言葉を、オレは真っ向から否定してやった。
渦巻く魔力がヤツを取り巻き、紅い残滓が緋色のローブを包み踊る。その次の瞬間には、道化師の姿はもうなく、ただ消えていく緋文字が宙に溶けていくだけだった。
「ふゥ……。コレで準備はデキたかねェ。
……よしッ、メイリー。最後にいっちょ派手な見せ場とイキますかッ!」
「うんっ!」
ずっと離れない。なぜならば、たった一つ、オレが見つけた大切な輝きだから。隣で頷く小さなお転婆姫の頭をいつものようにかき回すと、オレはいつもの笑みで微笑んだ。
+ + + 「さて……これで“準備”は出来たかな。」
僕はそこまで書き付けたものを脇に退けると、自分の城である書斎を見回した。僕の力場の焦点であり、僕の鉄壁の守りであるデータの集合体。これまでに集めた書物はどれくらいになっただろうか。データでバックアップはとってあるが、実際の原本はそれほど持っていくことは出来ない。でも失われるのはあまりにもったいないものたちだ。僕はそういったものを次元の狭間に隔離しておくことにした。シェル自身がアイスとして常駐するのだ、滅多なことでは破られないだろう。
「じゃあシェル、僕のいない間頼んだよ?」
コマンドを認識。書庫1~13までを隔離しました。 聞きなれた少年の柔らかな声ではなく、あまりに冷たく機械的なその声に、僕は実際に小さく身震いさえした。前に進むことに常に痛みが伴うと言うならば、僕の半身を模ったこの電魔の眠りも、そうなのかも知れなかった。
「不便になるけれど……仕方ないな。」
「大丈夫、ちょっとしたAIは残しておいたから。あいつのフォローとキミの暇潰しの相手くらいは出来るんじゃないかな?」
当分聞けないと思っていた少年の声で突然呼びかけられ、思わず僕は苦笑する。創造主に似て勝手ばかりする存在だ。
「ヤレヤレ……まぁ良いか。それより、そろそろ時間だろう。お客さんを招待しなければ、ね。」
「じゃ“通路”を開くよ。カウントダウン開始──5──4──3──2──1──」
シェルの声が途切れるとともに、書斎の扉が乱暴に開かれた。黒い司祭服に胸には銀の十字の縫い取り。“銀”たちだ。
「R,E.D.、貴君を天幕の名において、反逆の疑いで拘束する。抵抗しても無駄だ。この書斎への魔力供給は我々の突入と同時に天幕の回路から外されている。いかに魔筆……Cosmic Forgeと言えども、もう何も書き換えることは出来ない。」
“銀十字”の部下がそう言い放って僕を遠巻きに取り囲んだ。その輪の向こうで“銀十字”が嫌らしく笑みを浮かべていた。何度見てもつまらない顔だ。“蛇のような”とでも言う凡庸な形容詞くらいしか与えようのない、つまらない男だ。いくら素体に困っていたからといって、ナンバー2をこんな男に与えておいて良いものかと、僕は小さく溜め息を吐いた。
「済まないね、R,E.D.君。そういう訳だ。釈明は“金色”の前でしてもらおうか。」
「悪いが君と話すことは何もない。僕は此処を出て、少しの間暇を取ることにした。早く出て行った方が身の為だ。それじゃ。」
形式上だけでも避難勧告を出してやった。後で“金色”と揉めるのは面倒だからだ。
「愚かな。もう魔筆は何も綴れんよ。大人しくした方が、それこそ君にとって“身のため”という奴だと思うがね。」
“銀十字”。ダメだ、君は諜報員を失った前例があるというのに。最期までその愚かさを改められないとは。僕は口の端に笑みを浮かべると肩を竦めた。
「……僕を誰だと?
……僕は“運命を編纂する役割”。僕によって書き記されたことで実現しないことなどない。僕の生み出した彼らが為し得た偉大なる成果以外には、ね。」
「だからもうその魔筆は──」
あまりの茶番じみたやり取りに僕は腹を抱えて笑いそうになるのを必死で堪えていた。誰にでも人生の中で一度は主役が回ってくるというのならば、アウトサイダーの僕にとって、これほど出来すぎた舞台もない。僕は舞台の俳優よろしく手を拡げて“銀十字”の言葉を遮った。
「僕によって書き記されたもので、実現しないものはない。」
僕の前に、膨大な量の文章が浮かび上がった。それは流れ、次々に現れては消えていった。そして、このところいい加減に書き慣れた量──4500字の最後の文章が現れて、それは消えることなく僕と彼らの間に留まった。
「さぁ、終わりだ。僕がさっき書き終えたこの文章が消えれば、此処は消える。無論君たちはそれまでの間僕を傷つけることなど出来ない。逃げたまえ。扉はすぐ其処だ。君たちにとって有難いことに、どうでも良い君たちの結果は僕が書いた文章の中には含まれていないからね。」
既に書き終えられた“この”文章が僕を取り巻き、魔力の奔流となって僕を包み出した。使い慣れた“夢の国の王”の虹色の色彩が狂ったようにして踊る。少しの間、さよならだ。魔力の渦の向こうでようやく自分たちの現状を理解した彼らが、慌てふためいて扉へと走り寄るのが見える。“銀十字”は助からないが、他の連中はどうでも良い。僕は最後に、僕がこよなく愛した此処を目にしっかりと焼き付け、目を閉じた。
さぁ、新しい旅立ちだ。
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- 2007/05/16(水) 15:33:44|
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テストプレイのせいで大分痛々しいことになった状態でスタートです。半ばヤケクソ気味に、自分の書いた文章をパロディするというか、大分愉快なことになっていますw
文章的には、ここから爺の使っていた「最後にタイトル」がカッコよかったので真似していたりとか。
二日目(一日目は登録のみ)
ヤレヤレ……今日から後期だ。だりィ……。つってもオレはソレホド授業があるワケでもねェんだケドな。ビジンで山モリの生徒ズならトモカク最近の盗賊志願といッチャあ、無意味に露出度の高ェ女王サマみてェなヤツとかやたら暗ェ目の暗殺者志望とか、ロクでもねェヤツしかこねェ。そんな連中は自習だ自習。盗賊のイロハを教えてヤるのもアホクセェ。時間のムダッてヤツだ。第一オレはビジンと準備室でしっぽり特別授業するので忙しいしな。まァ今期もテキトーに……
+ + + そこでオレはふと目を細めた。学園内の雰囲気が変わったのだ。それは簡単に感じられるものではなく、目に見えるようなものでもない。敢えて言うならば、今まで吹いていた風の向きが変わったような。流れが変わったことを身体のどこかで感じるような、そんな感覚。
「来ヤガッたか……。」
この感覚は知っている。それはまるで夢で見たことがあるような、確かな既視感。あの仮想空間での訓練のお陰だ。そう、つまりは……天幕の構成員として活動を始めるべき時が来たという、ゴーサイン。オレの耳に、聞き覚えのある放送が聞こえてきた。
「後期学園生活を迎えるにあたり、訓練用の棒を用意致しました。後期の学園には様々な敵が徘徊することになります。戦闘の練習にご利用ください。」
「あァ、分かってるぜ。さっさと出しな。」
コイツはマイケルとかいったか。学園のどこに隠されていたのかも定かではないが、オレは仮想訓練で会ったことのあるコイツを余裕を持って観察し、以前に戦ったときの大体のデータを頭の中から引き出した。
所詮は訓練用の相手だ。コイツは放っておけば勝手に自分で自分に攻撃を放ち自爆する。わざわざ手を出すまでも無い。だが、ここでどれくらい身体が動くのかを確かめておくというのは悪い提案でもない。
全ての装備は現地調達が命令だ。オレは手近にあった、罠作成に使うワイヤーを切るためのナイフを手に取り重さを確かめる。武器として優れたものではないが仕方がない。
「はいこんにちはッ!私はマイケルと申しまーす!校長の御指示でアナタの戦闘練習のお手伝いをさせていただきますよォッ!!前期で鈍った勘を取り戻してくださいネェーッ!!」
「さっさとかかって来い、一人リアルボクシング。」
確か、コイツのパーツは後々役に立つ素材になるから上手く処分しろという指示が本部から出ていたはずだ。頭か、腕か脚か。上手く使い物になるように、欲しい部分を傷つけずに倒さなければならない。殴りかかってきたマイケルを躱すと、オレは椅子の陰にあるボタンを踏んだ。狭い準備室の中に設置されたピットトラップがマイケルを飲み込む。どんな時でもシーフは安全第一、油断大敵がモットーだ。
「もう上がってくんじゃねェよ一人ロッキー。」
ようやく穴の端に手をかけて上がってこようとしていたマイケルに蹴りを入れてもう一度穴に叩き落すと、オレはこれからしなければならないことを頭の中で列挙する。まずは信用できる仲間──要するに他の天幕の構成員や、天幕と関係のある連中だ──との合流。そして、メイリーも探さなければならない。
「…………。」
オレはそこでふと溜め息を吐いた。メイリー……オレは思わず仮想空間での偽りの記憶を思い出す。彼女は、あの彼女は本当に唯のプログラムに過ぎなかったのだろうか。オレに見せた微笑み、オレに見せた涙、オレに語ったオレの思い出。あれが全て偽りだったというのならば、オレはそのメイリーというフェアリーを見つけ出したその時に、どんな顔をすればいいのだろう。ただ偽りだと断定してしまうには、あまりにも鮮明で切ない記憶。
「ここからが私のやり方ですッ!」
「ウルセェ自爆マッチ棒。」
オレはもう一度マイケルを穴に蹴り落とすと、もう立ち上がってこないように念には念を入れて落ちたマイケルの上に飛び降りた。適当に踏みつけているとマイケルはその内動かなくなった。オレはそれを念入りに確認した上で、ようやく自分の開けたピットトラップの穴から一跳びで抜け出て散らかった準備室の惨状に溜め息を吐く。マイケルが所構わず暴れ回り──オレがトラップとしてあちこちのロッカーやら棚やらを使い──部屋の中はありえないほどに散らかってしまっている。これでは当分この部屋は使えないだろう。オレは散らかった部屋の中から必要な装備を探し出すと、いつも分かるところに置きっ放しにしている背負い袋に片っ端から詰め込んだ。大して使えるものは無いのだが持っていかないよりはマシだろう。
「ヨシッ!」
オレは憂鬱な気分を振り切るように自分に気合を入れ、少々重くなった背負い袋を担ぎ上げた。訓練通りならば他の連中もこの近くにいるはずだ。オレは天幕からここに来るときに与えられたメンバーのリストを眺めて集まるはずの連中の名前を名簿から探し出した。仮想訓練のときに名前を見たことがあるヤツが数人、残りは覚えの無い名前だ。恐らくデータが間に合わなかった飛び入りなのだろう。まぁそうは言っても天幕から紹介された人間だ、信用しても大丈夫なはずだ。
オレはリストの中にメイリーの名前を見つけて、もう一度溜め息を吐いた。
どんなカオでアイサツしろッつーのかね。
会ってみなければ彼女がどこまでを知っているのか、どこまでを覚えているのかは分からない。イヤ、もちろん本当は分かっているのだ。あれは唯の仮想訓練で、彼女はそんなことは知る由も無いのだと。だが、それでもオレは僅かな望み──たとえば、メイリーも同じ訓練を受けさせられていたとか、たとえばあのクソッタレの道化師が彼女に訓練のときの記憶を埋め込んでいたとか──そんな小さな望みを抱いていたのだった。
迷路じみた校舎の廊下を抜けようやく外に出たオレは、辺りを見回してすごい数の人間の群れの中から見知った連中の顔を見つけ出す。これからちょっとの間、信頼できる連中はこの十五人だけだ。だが、その中にまだ来ていないヤツがいることに気づいて、オレはもう一度辺りを見回した。
「アイ~?!」
人込みの中からオレを呼ぶその声。それは確かに訓練で聞いていた通りの声で、オレは呼びかけられた方を見透かす。そこには必死で空中に身体を浮かせて自分よりも高い人垣の上にどうにか頭を出そうとしている、“見知った顔”があった。
「おゥ。コッチだ、嬢ちゃ……」
軽く手を挙げて彼女に見えるように振ってやると、オレは人垣を分けてそちらへと近づく。嬢ちゃん、と呼びかけようとしてオレは思わず口を噤んだ。
「えへへ、やっと見つけたよ、アイ。」
「あァ、どうやらそうみてェだな。」
鼻の頭を掻きながらメイリーを見下ろす。彼女は仮想訓練で見たままの小さなフェアリーだった。どうやって彼女のことを呼べば良いのか、そんなくだらない悩みは、メイリーの笑顔を見れば掻き消えてしまった。それほどまでに、彼女は屈託も迷いも無い、純粋な喜びを全身で表現していたのだ。
「コレからは“ウンメイキョウドウタイ”ってヤツだからよ。ヨロシクな、メイリー?」
オレは自分が悩んでいたその悩みが馬鹿馬鹿しくなって、苦笑を浮かべて空を仰ぐ。旅立ちの日としてはこれ以上ないほどの、晴れた秋の空がそこにはあった。
「ヨシッ、コレからガンバろうぜッ!」
「うわっ、アイっってば下ろしてよ~?!」
人込みで歩きにくそうなメイリーを左肩に抱え上げると、他の連中が待っている辺りに向かって歩き出す。メイリーは少しの間オレの肩の上でじたばたともがいていたが、やがて観念したのかおとなしくなると、大きくひとつ息を吐いた。肩の上から降ってくる忍ぶような笑い声。
「ん、どうしたよ?」
オレが彼女を落とさないように見上げると、オレを見下ろしているメイリーと目が合った。満面の笑みで空を仰いで大きく伸びをするメイリー。
「ふふ、やっぱり“ここ”が良いね?
うん、がんばろうっ!」
こうしてオレたちの、“本当の”後期が始まったのだった。
+ + + 実験開始。 実験体も、どうにか迷いは心の底に押し込めたようだ。少々ややこしいことをしてしまったせいで混乱したようだけれど、そこは元暗殺者、それくらいの切り替えは出来なければね。これから、“訓練”で感じた以上の混乱が待っているのだから。 でも大丈夫だ。歴史は綴られた以上、厳然と、現実として存在している。感情も、絶望も、そして希望も、綴ったもののフィルタを通してしか歴史が残らないのと同じようにして、逆説的に綴られた歴史は綴られた時点で存在するのだ。たとえそれが、綴ったものの感情や絶望や、そして希望でしかなかったとしても。 僕に、その“可能性”を見せてくれ。──魔筆と紅いインクでどこかに綴られた、観察者の日記──
三日目
「さて……問題は彼ではない。そう貴方にあるのだと思われるのですが、そこはどう申し開きをなされますかね?」
「そこまで僕の責任だと?」 やってきたこの面倒な言いがかりに対して、僕は鼻で笑って応対した。彼ら黒の司祭服に銀の十字をあしらったこの画一的な間抜けたちは、要するに天幕の中に存在する言いがかり専門の連中なのだ。いちいち真に受けてまともに取り合っていては時間がもったいない。
「我々が許可を出したのは、貴方の実験に付随する“それ”が、我々虹色天幕としての喧伝効果にもなりえると、そう考えたからです。
それなのに、この体たらくでは困るのですよ。」
「結果的に、無駄になるものを生産する気は僕にはない。」 そう、僕は“意味を綴る”存在だ。意味のない冗長なものを綴るようになってしまっては本末転倒なのだ。それは“書かされている”のであって、決して“書いている”のではない。だが、それを聞いてこの苦情発生係の一人は予想通りに眉をしかめた。
「今回……前回からですからもう始まって大分経ちますが、貴方の実験をイレギュラーケースとしてどうにか承認させたということの顛末は……貴方もご存知ですね?」
要するに“自分たちが貴様のために努力してやったのだからその分の働きをしてもらわなければ困る”、ということだ。まぁ彼らのレベルには相応しい要求ではあるのだけれど。僕は口の端を歪めるようにしてモニタにいびつな笑みを浮かべると、僅かにあごを引いて首を傾げて見せる。その角度が、僕の瞳で相手を威圧するのに最適な仕草を作る──相手をもっとも不安に陥らせる仕草である──ことを充分に把握して。
「そんなに宣伝用の看板が欲しいのならば、AからZまで百五十回ほど並べるボットでも投入したまえよ。大丈夫、今の連中はそれと大差ないさ。」 それを聞いて黒服の銀十字は気色ばんだ。“シロガネ”、つまり天幕の中の順位で二つ目に位置するものに直接仕える者としては、唯の“紅”に凄まれた上に一切を拒絶されるというのは気持ちの良いものではないだろう。だが、そんなことは僕も充分承知の上だ。
「とにかく、今のままでは困ります。早急に手立てを講じてください。」
「断る。僕は僕のやり方で、必要なことだけを綴る。今まで通りに、ね。」 それだけを告げると、僕は一方的にモニタを閉じて通信を遮断した。いつまでもこんな茶番に付き合っているのは時間の無駄だ。
だが、確かに彼が言うように、このままでは具合が悪いのも事実だ。今回の僕の実験が彼らの言う“イレギュラーケース”として許可を得たのも、天幕の総意としてはかなりの無理を強引に押し通された形になっている。かつて天幕を離反した者の素体を再度使うというだけでも彼らにとっては許されざる行為といったところだろう。それを認めるためには、形だけでもある程度の利点がなければならないというのは僕にも分からなくはない。
だが、“意味を綴る”ことは苦しいものだ。それを継続的に行うのは決して楽な作業ではない。第一これからはさらに時間的な余裕がなくなるのだ。はっきり言って苦痛に等しい作業になるだろう。
それでも、僕は綴り続けよう。意味のあることを、僕のやり方で。僕は“運命を編纂する役割”、意味を綴るものなのだから。
全ては、喪われた、灰色の見透かす瞳のために。
絶対に、誰にも邪魔はさせはしない。
──どこかに、血の色で記録されたある日の備忘録──
+ + + 「オイオイ、ソイツはマジで言ってんのかよ?」
オレは僅かに非難の調子を込めて相手を見た。相手は二人、中年、ヒゲ面のオヤジと、冥い目をしたドワーフの爺さんだ。明らかにオレが好き好んで話をしようッつータイプじゃねェ。だがそれは向こうも同じようで、二人とも不機嫌な様子でオレの抗議を適当に流している。
「仕方ねえつってんだろがい。ケンカするには準備ってもんも必要なんだよ、分かるだろ?」
「元々この場所から開始すると決めた時点で決まっていたことじゃ。今更変更は出来ぬな。」
二人が順番に、オレの意見を速攻で却下した。オレは僅かに気色ばんで後退さる。だが、オレもハイハイと引き下がる訳にもいかないのだ。
問題はこうだ。マイケルとの一戦が終わった後で、オレは今回のメンバーと合流した。だが、そこで告げられたのは、「移動を共にするが戦線は別々に展開する」という、明らかに非効率な指示だったのだ。その指示を聞いて、オレは今回のリーダー格である二人に考えを改めるように迫ったのだ。だが、二人のリーダーたちの意見はひとつ、「パーティを組織する時間の余裕はない」というものだった。
確かに、パーティを編成するとなると時間はかかる。メンバーの振り分けや戦闘方法のすり合わせ、攻撃のタイミングの打ち合わせや作成に関する割り当てなど、決めることは多い。それよりも技の修練に時間を割いて戦力を確保しようというのはもっともな意見ではある。だが、問題はそこではなかった。
「ソリャオレたちはイイぜ。戦うのがオシゴトみてェなモンだしな。だケドよ、他の連中もみんなそうじゃねェッてコト忘れてねェかよ?」
そう、オレたちは良い。ある程度戦闘に慣れていて、敵に向かい合っても一人でどうにかできるヤツは良いのだ。だが、十六人という大人数を抱えるこの集団には、当然そういった荒事に慣れていないヤツもいる。そういったヤツらに一人でこれから数日を戦って生き延びろというのは酷な話だった。
「今回は召集に当たって、全員がある程度の戦闘をこなせるような人選になっている。本部にもそう条件付けをしたからな。第一、これから先のことを考えればこの程度の戦闘で音を上げる連中など不要。」
ドワーフの爺さん──キーロがそう断言した。それに合わせて用務員のオッサン──ゲンさんとかいうヤツだ──も頷いた。
「まぁ兄ちゃんが心配するのも分かるけどな。大丈夫、あのお嬢ちゃんも一人であれくれぇの敵はさばけるさ。な?」
そう言って器用にウィンクしてくるゲンさん。まぁこのオッサンとはそれなりに気が合わなくもなさそうだが、ヤツは知った風にオレの心配事をニヤリと笑ってずばり指摘して見せた。
「そういうコトじゃねェッ!
メイリーはともかくフェリシアやらナンやら、戦闘に向いてねェヤツがいるだろうがッ!?」
思わず口走ってから、オレは迂闊な自分の一言に遅ればせながら気が付いた。ゲンさんはしてやったりと言った様子でオレに向かって余裕の笑みを浮かべている。
「あの軍人のお嬢ちゃん……フェリシアンカとか言ったか、あのお嬢ちゃんは軍人なんだ、それこそ一人でもどうにかなるだろうさ。」
実際仮想訓練のときの情報から考えれば、一番危なそうなのはあのフェリシアッつー嬢ちゃんだ。だが、それをこうやって封じられてしまうと非常に分が悪い。
「とにかく、まずは相手を確実に倒せるだけの戦力の確保が肝要。お主もそれくらいは分かるであろう?」
畳み掛けるようにしてキーロの爺さんが言う。言い返すことも出来ずに無様に押し黙るオレ。
「まっ、そういうことでパーティとしての合流はもうちっと先ってこったな。まぁ応援でもしてやれや兄ちゃん。」
気軽にオレの肩を叩き、ゲンさんが慰めにもならない提案をしてくれた。オレは仕方なく大きく息をひとつ吐いて肩を竦める。どちらにしても、もう集団としての方向性として当面の作戦は決まってしまっているのだ。ここでオレがむずがっても時間の無駄でしかないということくらいはオレにも分かっていた。
「ッ、仕方ねェな……。」
オレは舌打ちをひとつすると、苦渋の表情のままで仮の本部として設営されている天幕を後にした。
+ + + 「ヤレヤレ、参ったねェ……。」
大きく溜め息を吐いて切り株に腰を下ろす。向かいにちょこんと腰掛けた妖精──メイリーに向かって、オレは先ほどの会議の顛末を聞かせていた。
「うん……このくらいならボク一人でも何とかなるから……アイは心配しないで?」
にっこりと、いつもの──もっとも、オレはその笑みを仮想訓練の中でしか知らなかったのだが──笑みを浮かべてメイリーはそう言った。そう、“いつも”の笑みで。それは、彼女が心配をかけまいとするときに、いつも見せていた笑みだった。この小さなオテンバ妖精は、そうやって繊細な一面を見せることがある。それが分かる程度には、オレは彼女のことを“知って”いた。要するに、あの愚にもつかない仮想訓練も、そのくらいには役に立っていたということだ。
「んなコト言ったってよ、メイリーはそもそも前衛に立ってどうこうッつーのは得意じゃねェだろ?」
彼女の主武器は魔法だ。魔力を練るための集中時間、詠唱を完成させるための間合い。そういったものが必要であることぐらいは魔法の知識がないオレにでも分かる。第一、その細い体躯がどれだけ相手の攻撃に耐えられるかは非常に不安だった。
「も~、そんなの大丈夫よ。だいたい前だってボクを前に出してアイは後ろに隠れてたことだってあったじゃない?」
彼女は、こともなげにそう言った。まるで当たり前のことのようにして。オレは思わずその彼女の言葉を素通りさせそうになって、その重大な意味に僅かに逡巡する。
確かに、仮想訓練の最中には、そういったこともあった。メイリーは優れた魔石作成の素養を持っており、それに必要な生命力を持っていた。つまりそれは打たれ強いということだ。対してオレは、その攻撃の主軸を罠に置いていて、それが発動するまでの時間稼ぎをしなければならず、また同時に身の軽さで打たれ弱さをカバーするシーフの戦闘スタイルだったために、魔法を主とした攻撃には滅法弱かった。そのために、敵によってはメイリーを前衛に置いて魔法攻撃を凌ぎ、オレの罠が発動するまでの時間を稼いだこともあった。
だが、それはあくまでも、仮想訓練の中での話だ。つまり、オレしか体験していないことのはずだった。
「オイメイリー、それ……ソイツはイツの話だ?」
それは、オレが心の底で微かに抱いていた儚い願い──あの短い、僅かなときが、現実のものだったという、絶対に有り得ないはずの願望を実現してくれる、僅かな補強材料だった。
だが、メイリーは空を見上げると、いとも簡単にオレの希望を打ち砕いて見せた。
「さ~、いつのことだったっけ?」
自分でも頭の上に疑問符を乗っけていつのことだったか思い出そうとするメイリー。オレは額に手をやると、微かにしてきた頭痛を抑えようとして歯を食いしばった。……もしかすると頭痛ではなく怒り──もしくは諦めか呆れ──だったのかも知れないが。
「まァメイリーに聞いたのがマチガイだったぜ……。」
「も~、とにかくボクは大丈夫よ。そんなに長い間でもないみたいだし。ね?」
オレはその天真爛漫な笑みを前にして、溜め息を吐く他ないのだった。
四日目
予想通り、ある程度の連中はレースから脱落らしい。一応のところはこれで双方の顔を立てることが出来ただろう。後はこれを落とさないように維持しつつ、少しずつ這い上がれば良いだろう。ただし、切れと締めだけには気をつけなければ。 僕はそこまでを綴って、ふと目を上げた。あることを思いついたのだ。傍らに置かれた小さな鈴を鳴らして、涼やかなその音が呼んだものが現れるのを待つ。
「どうだろう。やはり歴史の認識に齟齬が生じているようなんだけれど。いっそのこと記憶を改変してしまった方が都合が良いかな。
それとも選択肢としての要素──逡巡を生み出すものとして残しておいた方が良いのかな。君の意見を聞いてみたいんだけれど。」「僕に聞いてどうするのさ。キミがやったことでしょ。
大体“綴られたものは過去として存在する、それは既に決定されたことだ”、っていうのはキミのお決まりのセリフじゃなかったっけ?」
緩やかな風を巻き起こしながら机の上に現れた光球を、僕は椅子を回して振り向いた。黒と白、二対の羽を持つそれは、くすくすとボーイソプラノの軽やかな笑い声を漏らしながら滞空している。その声音とは正反対の──もしくは似合いすぎる──嫌味な物言いに、僕は僅かに口を歪めた。
「しかしシェル、どうして君はいつもそういう言い方しか出来ないんだろうね。つくづく嫌になるよ。」 その言葉を聞いて、僅かに光球の色が明るくなり風が強くなる。流石に気に入らなかったらしい。
「そりゃあね。そういうところを凝縮して作ったのはキミでしょ?」
「まぁ自分の嫌な部分を凝縮して見せられるというのは、いつもながらに気持ちの良いものではないね。
それよりも、机の上の書類を飛ばして散らかさないでくれよ。それは“シロガネ”に提出するデータなんだから。」 僕は風を巻き起こして不満を表現するシェル──この翼を持つ光球の名前だが──に注意した。この上に報告が遅れたりすれば、その苦情発生係に何を言われるか分かったものではない。
「まぁいいけどさ。で、今さら周囲までを混乱に巻き込んで記憶の再構築をするよりかは、今のままの方が良いんじゃない?」
もう既に混乱は生じているのだが。とは言え彼が言わんとすることは理解できたので、僕は小さく頷いた。こういったところは便利なのだけれど。まさに、手に取るようにどころか“自分のことのように”理解できる訳なのだから。
「まぁそうだね。もう綴ってしまったしな。これに関しては、再構築するよりも状況を見ながら適当に処理していくことにしようか。
もう良いよ。ありがとう……あぁ、ついでにそのデータ、撒き散らす前に“シロガネ”に届けておいてくれないか。」「メールに添付して送れば良いじゃないかよぅ……。」
シェルは不平をたれながらも、書類と共に姿を消した。僕の指示を実行の命令として認識したのだろう。僕は再び椅子を戻すと書きかけていた書類に目を戻した。
それよりも、実験用のデータとして受け取っていた時点から気になっていた存在がある。自らを“物語記録者”と称する存在がそれだ。
彼──便宜上“彼”としておこう──は、全ての位置に存在するという意味では非常に僕と立場が近い。つまりは観察者として世界の外側に置かれているということだ。彼自身は歴史に干渉する方法論を持たず、その主たる役目は“記録すること”にあるらしい。そこが魔筆を用いて運命を編纂する僕との違いのようだ。
だが、彼は今、世界の中に自らを置いている。──僕がエルタ=ブレイアと呼ばれた世界に自らを収束させた時のように。そして、僕の魔筆に当たる運命改変装置を手に入れようとしているようだ。“彼女”が真に運命改変装置として、彼に機能するかどうかはまだ分からないが、それはまるで僕が魔筆に出会った頃を思い起こさせる様でもある。
彼が“彼女”をどう用いていくかはこれから非常に興味深いところだ。上手くやれば可能性の展開をも可能にするかも知れない。少しの間観察することにする。──あるデータベース内から発見された「reminder54.bhgl」の一部から──
+ + + 「ヤレヤレ……指示書ですか……。」
オレは小さく溜め息を吐くと、プリントアウトされたものらしいハードコピーに目を通す。シェルが朝方に持ってきたものだ。要するに天幕からの文書である。中にはいつもながらの読みにくい、筆記体を模ったフォントを使った血の色の文字が並んでいる。
四日目戦闘終了後に、各員に通達した指示書の通り合流、パーティ編成を行うこと。 その下には十六人を半分ずつに分けた名前のリストがパーティ編成として列記されている。オレはその組み合わせを確認するともう一度溜め息を吐いた。
「四日目ッて……要するに今日だろうがよ……。」
当日にこんな重要な指令をブッツケで送ってくるというのは正気の沙汰とは思えない。現に一人、牧師だか神父だかが合流をトチッている。そういえば神官のお子サマも初日をブッチしたせいで遅れているはずだ。こんなことで上手く行くのかと、オレの頭を微かに不安が過ぎる。
「聖職者ッつーのはドイツもコイツも、ナンでこう時間にルーズナンですかねェ?」
自分のことは棚に上げてオレは独り言を呟いた。オレも自慢じゃないが集合時間にはかなり遅れていることが多い。ブラックリストにしっかり名が載っているせいで間に合っているようなものだ。
「さて、とりあえずは今日の戦闘か……。」
今日はウォーキング部員がいる辺りに行けッつー指示だったはずだ。ウォーキング部員は……スピードアップとブロウだったか。手数がブーストで多いのは危険だが、ピットトラップがある程度入れば充分余裕はあるだろう。そもそも昨日の戦闘を全開でこなしたために、罠の手持ちが今日は少ない。無理は禁物だ。間合いを詰めて連撃がキレイに入ればそれで勝てるだろうが、こればかりは実際にやってみないことには何とも言いがたい。
「まァどうにかなりますかね……。」
オレは近くに置いたワイヤーの束から、発動用のトリガーにするために適当な長さを見繕って切り取った。戦闘が起こる地形にはいくつも罠として使える障害物や何やらがあるが、それだけでは罠として機能しない。屋外で罠を張るにはこうしたトリガーが必要なのだ。切り取ったワイヤーを束ねて引き出しやすいようにまとめると、オレはそれを手甲の内ポケットに収めていく。戦闘時にこれが絡まったりすればそれだけで致命的なだけに、いつもこの作業には非常に気を遣う。
だが、ありがたいことに、キーロの爺さんに預けたワイヤーを切るためのナイフは見違えるようにして戻ってきた。このまま武器として使えるレベルの出来だ。流石ドワーフの手によるもの、といったところか。その鋭さは、武器として振るったときの切れ味だけではなく、この罠の仕込みのときにも大きく影響するだけにこれは非常に助かった。
「さてとッ!」
自分に気合いを入れて立ち上がる。そろそろ集合時間だ。オレは傍らに置いたインスタントのレーションの残りをかき込むとワイヤーカッターをブーツのポケットに収める。一番信頼できる得物はやはりここが一番収まりが良い。
「しっかし……この食料はどうにかナンねェのかねェ……。」
かき込んだレーション──要するに乾麺に適当に味付けをしたものだが──のロクでもない味が時間差で胃から戻ってきてオレは顔をしかめた。天幕から支給されたものだが、これはアサシン時代の保存食料の次くらいにマズい。要するに最低ランクだ。
「前期は良かったんだケドねェ……。」
落ち着いている時分であれば、適当な女の子を見繕っておけば昼メシには困らなかったんだが。こんなロクでもねェ後期が始まってしまった今となっては、手製の弁当なんていうものは夢のまた夢というヤツだ。オレは仕方なく貰い物のビールで無理やりに後味ごと胃に流し込むと自分の天幕を出た。
「料理でも……デキればイイんだケド、な。」
そう言ってみて、オレは何かをふと思い出した。捕まえた動物を端から煮込んだシチュー、やたらに味の薄いカレー、ウサギの蒸し焼き。オオトカゲの皮に包んで焼いたレモンクッキー、無理やり雪を降らさせて二人で作ったケーキ。雪の紋章の形に切り取って焼いたクッキーを入れた小さな包み……。机の上にはオレのピューターのカップと、もうひとつとても小さな、竹を割って作ってやった専用のカップが……。
「…………。」
オレは、その途轍もなくサバイバルな食生活に、どこか懐かしさのようなものを覚えた。あのときの料理はあり合わせのもので作ったものばかりで、お世辞にも味が良いとは言えなかった。だが、あのときのメシは、確かに旨かったはずだったんだが。
「……イツの話だよ?」
オレはデジャヴュのような、その奇妙な料理の記憶を無理やりに頭の隅の方へと押しやると、気分を切り替えようとして、空を見上げ大きく息を吸い込んだ。後期が始まったばかりの空は高く、秋の雲が微かに浮かんでいる。
それは、どこかで見たはずの、遠い遠い、遥かに高い空だった。
「……レモンクッキー……な……。」
まぁそんなものを作ってみるのも、たまには悪くないかもしれない。十六人もいれば、誰か甘いものが好きな物好きが食うことだろう。
オレはふと思いついたそのレシピを、何となく心に留め置いて歩き出した。これから戦闘のために、冷静でいなければならないと言い聞かせる自分が、レモンクッキーで誰かが喜んでくれる、そんな悪戯めいたわくわくするような気持ちに浮かれている自分を必死で抑え込もうとしている、そんなちょっとした葛藤を味わいながら。
五日目
さて、今日からはデュオでの戦闘だ。要するに敵も複数になる訳で、その分技編成の見直しが必要だろう。しかも悪いことに、メイリーはあれだけ言われたにも拘わらず、ホーミングミサイルすら強化して覚えていない。強化が出来ないマジックボムはともかく、何も強化されていないというのは中々に厳しい。所謂“ボーナス”を得る条件は、ここ三日間の間は全員に通達されており、平等だったからだ。──それはつまり、ある条件で習得できる技を覚えた連中は、全員それを強化して習得しているということだ。その時点で既に、それは“強化”ではない。“弱化”だ。三日目までの強化習得条件──俗に言う“初習得”というヤツだ──の緩和にに乗り遅れ、四日目にホーミングミサイルを覚えたメイリーは、少なくともホーミングミサイルに関して言えば、“弱化”の範中に入ってしまっているのだった。無論、メイリーはフェアリーであるため基礎体力としての魔力が高い。普通の人間よりかはずっと有効に魔法を行使できるだろう。だが、上乗せできるものがあるならばそれを乗せておくに越したことは無い。それがタダならばなおさらだった。
「ソレを補うのがオレの役割、ッてな。」
そう、メイリーの魔力がいくら高いとは言え、彼女はそもそも戦闘には向いていない。いくらメイリーが自分も戦えると言っていても、十人並みに戦えるというのはあくまで人並みであって、戦闘に特化した連中には及ばない。簡単に言えば、それは“覚悟”の違いだった。
まァ、そのためにオレがいるんだし、な。
こうやってヘタレた盗賊科の非常勤講師をやっているが、これでもオレは元アサシンだ。所謂“戦闘系”というヤツだ。敵を仕留めるのはあくまでオレの仕事であって、メイリーの仕事ではない。
「ソロソロ解禁しますかねェ。」
敵が複数ならば、それに対応した戦い方というものがある。敵が何人であろうと、それに応じた戦い方というものは存在するのだ。それを適切に選択し、的確に敵を屠る。それは敵と刃の間合いで向き合う者の──要するに“戦闘系”の──必須の技能だといっても良い。そのための、オレの選択肢のひとつがこれだった。
罠設置用のワイヤー。これ自体が、凶悪な罠となることもある。トリガーではなく、罠そのもの──吹き荒れる風、全てを薙ぎ払い切り刻む刃──として。
オレはアサシン時代に“クモの巣”と呼ばれた装置を相手にひたすら訓練させられた。それは大きな部屋の中ほどに障害物を設置し、様々な方向に張り巡らせた細いワイヤーの集合体だ。障害物は野外や室内、次に向かう任務に適応するよう、任務中に遭遇するであろう地形を忠実に再現している。そして、そのワイヤーはそこで遭遇するであろう敵の間合いに合わせて張り巡らせられるのだ。相手がオレと同じような短剣使いであれば狭く、しかし濃密に、逆にツーハンダーのような大剣使いや槍使いが相手ならば広く、しかしその間を広くワイヤーは設置される。その他にも、情報から得られるだけの相手の使う武器の特性に合わせて、ワイヤーの張り方は変わる。
ワイヤーは極めて細く、スピードが乗った状態でそれが身体に掠ればその部分が裂ける。しっかりと固定されたワイヤーは、その細さゆえに相手のベクトルをそのまま威力に変換するのだ。相手の視線や予備動作、呼吸や僅かな癖などから──そしてオーバードーズによって極限まで感覚を研ぎ澄ませるため──オレたちアサシンは“死線”と呼ばれるものを見ることが出来る。それは、大まかに言えばまだ発動していない攻撃の武器の通過するであろうラインだ。武器が通過する場所、つまりは武器が当たる場所である。
相手の攻撃が完全に読めているなら、それに当たることなんて有り得ないだろう、というのは素人の考え方だ。無論相手の攻撃が絶対に届かないところにいれば、自分は攻撃を受けないだろう。だが、それでは自分の攻撃も届かない。自分と同じ程度の腕と間合いを持つ相手と相対して相手を倒すためには、相手の攻撃を避け自分の攻撃を入れなければならないのは当たり前のことだ。そうなると、後はいかに相手の攻撃を躱した上で自分が攻撃できるか、ということなのだ。さらに、たとえ相手の攻撃が全て予測できても当たらないということには繋がらない理由がもうひとつある。避けるという動作によって生まれる隙は必ず存在する。隙が生まれないのはまったく身体を動かさなくても元から当たらない攻撃に対してだけだ。それですら、相手の武器の位置が変わり相手の体勢と次の動きが違うために、全く安全だとは言えない。次に発生する攻撃を躱せなければ、その一撃を避けた意味は無いのだ。
要するに、戦闘というのは詰め将棋のようなものだ。お互いの手番が存在し、その中で相手の動きを制限して、最終的に相手を全く避けられない状態に追い込んだ者が勝つ。
“クモの巣”は、その勘を養い訓練するための初歩的な訓練装置だった。だが、同時にそれは非常に凶悪なものとしても知られていた。
何せ少しでもワイヤーが掠ればそこが切れる。それによって体勢が崩れ、次のワイヤーがさらに致命的な場所で待っている。僅かに跳躍の距離を見誤りでもすれば、着地する前に首の通過する場所にワイヤーが待ち受けていないとも限らない。そんなことになれば着地するまでに自重と勢いだけで肉片になってしまう。
そんなワイヤーの網に向けて、オレたちは全力でダッシュさせられていたのだ。実際に敵に相対したときに“死線”を全て躱し、相手に一撃を入れるというそれだけのために。
ヤレヤレ、こんな経験はもう役に立てたくねェんだケド、な……。
そんな訳で、オレは幸か不幸かワイヤーが凶悪な武器になることを──しかもその攻撃が広範囲に渡ることも──知っている。当然あの頃訓練で使っていたような、繊細で鋭利なワイヤーは手に入らないが、普通に罠を設置するためのトリガーワイヤーでも使い方によっては充分凶悪だった。地形を利用し様々な角度に、切れる直前まで力をかけてワイヤーを張り巡らせるのだ。それを何度も繰り返し、ある一点を中心にしてクモが巣を張るようにワイヤーを展開していく。それは耐え得るぎりぎりの力をかけて引き絞られているために、たやすく切れる。そして、切れた瞬間にそれまで維持していた張力を一気にベクトルに変える。切れたときに力を解放しワイヤーが通過するルートは前もって完全に計算されていて、自分はその安全な場所に身を置くのだ。一度暴れだしたワイヤーは、そのルート上にある全てのものを切り裂きながら次のワイヤーを切る。まるで張り過ぎて躱しようのない仮想の“死線”のように、それは濃密に、次から次へと連鎖しながら敵を巻き込みながら全ての予定されたワイヤーを解放するのだ。もちろん予定外のものがルート上にあったり僅かに計算が狂うだけでもワイヤーは途中で動きを止めてしまう。下手をすれば自分のところへ向かってこないとも限らない。繊細な精密機械のようなものだ。だが、その分手持ちの武器だけでは成し得ない立体的な、空間への同時攻撃が可能になるのだ。
後は……メイリーが巻き込まれねェようにしねェとな……。
昔は良かった。彼女は人間よりはるかに小さくその分計算も楽だったのだ。だが、今のメイリーは人間と同じだけの空間を占め、しかも飛行が出来るために行動の予測が昔以上に付きにくい。
「……昔?」
思わずオレは一人で呟いた。“昔”っていつだ。確かに小さい、人形くらいの大きさのメイリーは計算のときにも楽で……。
「……クソッタレッ!」
訓練で幾度となく覚えのある頭痛。頭の奥から染み出すようにやってくる冷たい痛み。オレは手近に置かれた椅子を蹴倒して八つ当たりし舌打ちする。
「アイ、どうしたの?」
派手な音を聞きつけて、天幕の入り口にかけられた垂れ布をめくりメイリーが顔を出した。オレは慌てて口の端に笑みを浮かべると何でもないというように彼女に手を振った。だがそれに構わずメイリーはオレの元へやってくると、俯いて表情を隠したままのオレの顔を下から覗き込んだ。
「……大丈夫だよ、アイ。」
唐突に彼女はそう言った。僅かに目を伏せて少し考え込んでから、オレの目を見上げて。
「ん……?」
「ボクも分からないこととか不安なこととか、いっぱいあるけど。
……でも、大丈夫だよ。」
ぱっと差し込む光のように、純粋な笑顔を浮かべて。迷いの欠片もなく。
「ボクは全部覚えてる。だから大丈夫。ね?」
「あ、あァ……。」
オレは戸惑いながら頷いた。歳以上に大人びて見える彼女の表情が、覚悟に裏打ちされたそれであるのに気付いて。
「苦しかったことも、楽しかったことも。全部覚えてるよ。いつか二人で話せるときが来るから……ね?
だから、今はできることをやろう?」
「あァ。そうだな。」
オレはメイリーの言葉に頷くと、いつもの笑みを浮かべて見せた。そう、今オレに必要なのは腐ることでも、迷うことでもない。今日からの戦いで、彼女を護ることだ。オレが迷っていては役目を果たせない。彼女を護れない。
大丈夫、ずっとずっと昔からヤッてきたコトさ。
そう、ずっとずっと昔から。そんな気がして、オレはもう一度頷くと立ち上がった。
「よしッ、行くぜメイリーッ!」
これから忙しくなりそうだ。だが、不思議とオレにとってそれは心地の良いものだった。
+ + + 合流、WireSliceデバイス解放。行使プログラムの動作チェックが必要。精神の向上によるSP増強、器用の向上による威力向上。能力制限の緩和を進める必要あり。やることは山ほどあり時間は必要に到底追いついていない。 エリィ=マクシミエル関係の情報整理、解放のタイミングを見計らう必要あり。ハルゼイ関係も同様。あまり一気にデータが流れ込まないようにしなければ。崩壊の危険性。─────────────情報統制?───────────── 僕の関係者を含む、複数の情報ソース。隔離するか? 監視レベルの引き上げ──とある書斎の机に置かれた走り書き──
六日目
「んー、ッつってもそんなに話すコトもねェぜ。オレはアサシンだった。」
オレはご丁寧に神父の衣装を着込んだにーちゃんに向かって、適当に話をしてやっていた。どうにもこのにーちゃんはオレのことを妖精騎士か何かと思ってやがるらしい。そんな大それたもんだったらオレはそもそもこんなことはしてねェッつーのよな。そもそもコイツ、どこまで天幕のことを知っているのか知らないが妙に詳しい。天幕の紹介で合流したんだから仲間には違いないんだろうけども、あんまりベラベラしゃべるのは得策では無いかもしれない。
「オレはとある大きな街で、親のカオも知らずに育った。要するに“スラムの子供たち”ッて呼ばれるようなガキの一人だったってワケだ。」
その頃、あの世界、あの街は商都であることも幸いして、スラムの連中もまぁ食っていけないような悲惨な状況ではなかった。頭の回転とそれなりの手先の器用さ、後は身のこなしがあれば、それなりに。もちろん身体の弱いヤツやトロいヤツは生きていけない。だが、それでもそれなりの目端が利けば集まったガラの良くない連中に混ざって生きていくことはどうにかできる、そんな感じだったのだ。
だが、ふとした拍子に大きな転機なんてものは訪れる。
+ + + 「おい、そろそろ逃げるぞ?」
“片目”がそう言って入り口を振り返った。辺りには俺たちがブッちめた連中がうめきながら転がっている。確かにそろそろ衛視の来る頃かも知れない。俺たちはリーダーである“片目”の指示に従って撤収の準備を始めた。今日はここからが“本番”だ。
そう、今日は“仕事”だった。普段と同じようにして仲の悪いグループと喧嘩し、衛視を引き付ける。そこから衛視の数をできるだけ増やすようにして、付かず離れずでスラムを逃げ回る。仕事として俺たちにコイツを紹介したあのいけ好かない男にはもちろん他の目的があるのだろうが、そんなことは俺たちの知ったことじゃない。俺たちは引き付けた衛視の人数と時間で追加報酬をもらえるということになっていた。第一、陽動だとか何だとか、余計なことまで知っても得をする訳じゃない。俺たちはただ言われたことをやればそれで良かった。
「……おい、何だお前?」
入り口に注意を向けていた“片目”が不審気に声をかけた。俺たちが騒動に使ったあばら家の戸口に、黒い人影がひとつ。それは明らかに衛視のおっさんとは違う、気配のない幽霊のような男だった。
「俺たちは忙しいんだ。悪いな。」
無言で戸口をふさぐ人影に、“片目”が近づいて押し退ける。俺たちのどこかにあった嫌な予感とは裏腹に、その黒いフードの人影はあっさりと“片目”に押し退けられた。
「おい、みんな。行くぞ?」
幽霊のように、相変わらず無言で立ち尽くすその人影に、“片目”も不気味に思ったのか俺たちを急かす。衛視のおっさんに見つけてもらわなければ“仕事”が始まらないのだが。俺は不安と仕事を天秤にかけながら戸口に近づき、その黒い姿の横を通り抜けようとした。
「……こいつ、か。」 聞こえたのは、ただその一言だけだった。すれ違おうとした俺の耳に、その小さな独り言は、それでもはっきりと届いた。
思わず黒い人影に振り向こうとした俺は、何が起こったのかも分からずにバランスを崩して倒れた。意識ははっきりとしている。ただ、身体の自由が利かない。目は見えていても、指一本動かすことが出来なかった。ローブから抜き出された細い手が何か針のようなものを掴んでいる。一瞬の内にそれで刺されたらしかった。
「おいっ!?」
まだあばら家の中に残っていたやつが声を荒げる。ばたばたと駆け寄ってくる足音。
「何しやがった!?」
視界の外から“片目”の声がして、やつも走りよってきたのが足音で分かる。だが、俺の傍まで来た足音が唐突に途絶えると、“片目”が俺の目の前に倒れ込んできた。身体の動かせない俺の目の前に、打ち捨てられたように倒れ伏した“片目”の首はあらぬ方向に曲がっている。驚愕に見開かれた片目は何が起こったのかすら理解できなかったのだろう。傷で醜く塞がれたもうひとつの目と、それはおかしな好対照を成していた。
こいつは、俺たちの敵う相手じゃないっ!
視界の外からその黒い人影が滑るように現れ、戸口の近くにいたメンバーの一人に音もなく近づいた。そいつは慌てふためいて腰のナイフを抜こうとしていた。ローブから蛇のように滑り出た細い腕がそいつの肩を軽く押す。思わず押し返そうとしたところに黒いブーツに包まれた足が膝を蹴ってそいつは簡単に転がった。そのまま顎をかかとで押し付けるようにして嫌な音とともに顎が外れ、異様な角度でそれが首にめり込む。それだけでそいつは動かなくなった。あっという間だった。
慌てて逃げ出そうとする他の連中を、黒い人影は虫でも殺すようにして全員殺した。素手で、何の抵抗もさせずに。最後に静かになってから、そいつは倒れていた俺に歩み寄ると無言で俺を抱え上げ、一言こう言ったのだ。
「お前には見込みがある。」
+ + + あの時、連中はご丁寧にもオレに全てを見せて連れてきたのだ。逃げ道がないことを理解させるために。オレにあのクソッタレな訓練を受けさせる、それだけのために、連中はわざわざヤツらを皆殺しにしたのだった。
「そうしてオレはアサシネイトギルドに……要は拉致されて入れられた。訓練を受け、アサシンとして育てられた。
だケド、ある時にちょっとしたイザコザに巻き込まれて天幕へ来た。そう、アイツを逃がすタメに……。」
オレはそこで言葉を切って神父を見やった。何を思ってるのかは知らないが、聞きたいと言ったから聞かせてやっただけのことだ。深く瞑目してオレの話を聞いていた神父はようやく目を開ける。
「それで、その後はどうしました?」
「その後?
その後なんかアリャしねェよ。オレはそのままこうして……イヤ……。」
アイツッて……ダレだ?
アサシネイトギルドを出奔したとき、確かに誰かを助けるために、オレは連中を皆殺しにした。そうして天幕へと身を寄せたのだ。あの時の……白い……。
「アイツってダレだ?……どうして、大切なコトなのに、思い出せねェ……??」
「その後は、どうしました?」
後は僕が代わりに伝えておいてあげよう。君にはまだ、無理だろうから。 突然目の前が暗くなり、そこでオレの意識は途切れた。
+ + + どうして前の素体のことを知っている者が外部から紛れ込んでいるのか、それは僕にも分からないが、とりあえず彼の誤解を解いておいた方が良いだろう。書斎に呼び出して取り込んでおく必要がある。 僕はそこまでを記録すると運命の玩具を取り出して宙に詠唱を綴った。破滅を呼び込むと言われる“宇宙を創り上げるもの”が紅い軌跡を残して使い慣れた術式を展開していく。夢の国の王の扉を使って彼をここに転移させるのだ。澱んだ虹色の色彩が収まると、そこには神父のお仕着せを纏った若い男が立っていた。
「ようこそ、僕の書斎へ。」「ここは……?」
辺りを見回した彼に、僕は来訪者にいつもやるようにして、完全に計算されたタイミングで回転椅子を回す。邪眼で見つめ、心を乱す。口の端に意図して笑みを浮かべると、僕は静かに彼に告げた。
「ここは時の狭間にある僕の書斎。君のことは聞いているよ、ケーニッヒ。まぁ座りたまえ。紅茶でも出そう。」 僕は彼に来客用のソファを示して勧めると、どこまでを話して聞かせるか図っていた。少なくとも今の素体が島のそれではないことは告げておいた方が都合が良いだろう。微かに笑みを浮かべて、僕はゆっくりと口を開く。
彼にある程度実験の内容を仄めかして、恭順を迫っておくのも良いだろう。どうせ天幕に関われば、天幕か僕、どちらかに従わざるを得ないのだから。それならば天幕よりも僕の直接の手駒として確保しておく方が都合が良い。かのグババ翁のようにして。 何にしても、彼が知るその内容が、既に知っていて良い内容では無いことを認識してもらわなければ、ね。もっとも、僕にとっては可能性提示がより増えるのだから、願ってもない事態ではあるのだけれど。──とある、奇異な会談の始まり──
七日目
+ + + ──会談:Scene 2;Take 0──
僕が呼び付けたというのに、この神父は堂々としていた。まるで何が行われたかを理解したように。“召喚酔い”はあるのだろうが、少なくともいきなりここに飛ばされてこれだけ平静でいられるというのは珍しかった。「座りたまえ。妖精騎士を知る者よ。」 僕は有無を言わせぬように、だが強圧的にならないように注意しながら彼を促した。他の者にするように最初から魔筆の力を見せつけて従わせても良いのだが、神に仕える者には僕は慎重なのだ。いくら外宇宙の存在と言えども、炎で印された十字に排除されたという記録もある。
「簡単に、用件だけを言おう。
君は知り過ぎている。そして、迂闊にもそれを隠すことをしなかった。どこからそれを知ったのか、もうそれはどうでも良い。だけど、それを君が吹聴し続けるのならば、天幕は君を排除にかかるだろう。」「それは……あの黒い装束を着た彼にも教えられましたがね。」
神父はあくまで冷静に言った。その自らの言葉の意味を知るように平然と。だが、僕はもう一押ししておくことにする。それが記述の差分によってまた面倒を起こす可能性を持っていても。今後やりやすいようにある程度の道筋を、彼に付けておく必要があったのだ。
「彼の言うことは聞いておいた方が良い。仲間だと思っていた者に後ろから屠られたくは……ないだろう。もっとも、僕ならそれを止めることも出来るのだけれど、ね。」「だから黙っていろ、と?」
僕の方を透かし見る彼に、僕は口の端を歪めて微かに笑みを浮かべて見せた。“同じもの”だ、と彼に伝えるために。
「君はあの場所で生きた“象牙色の微風”を知っているようだ。だが、彼は本質的に天幕の敵なんだよ。それを今、君が口にすることは余計な混乱を招く。あくまでも、今存在する彼は、天幕の構成員なのだから。」「“自らの幻”……いや、“創造された命”ですか?」
ホムンクルスと想像するのはオカルトの造詣が深いからだろう。当たらずとも遠からず、といったところだ。だが、全てを教えてやる必要は無い。それは可能性提示の摘み取りでしかないのだから。
「それは想像にお任せするよ。
とにかく君に伝えておきたいのは、今存在する彼は“従順な天幕の僕”だということだ。……分かるね?」
言うべきことを告げた僕は、それ以上の質問を許さないために彼に椅子ごと背を向けた。あの暴虐な父性に仕える者はどこまで僕の力を乱すか分からない。無論修正は効くのだけれど。
「心に留めておくとしましょう。」
彼が立ち上がったのを気配で察して、僕は再び虹色の門を開く。彼は迷うことなくそれに歩み入った。僕は彼の気配が消えたのを確認して小さく溜め息を吐く。
「どこまで“イレギュラー”なのか……今回は気になる存在が仲間内に多いようだね……。」 まだ僕の心労は絶えないようだ。
+ + + 指輪。細い、女物の。それを昔着けていたのは男だった。いつ託されたのかは覚えていない。『乗り越えるためのものだから。』、ただそれだけをソイツはオレに伝えて、それをオレに託した。
「ん、ナンだソレ?」
オレは朝の光に煌く細いチェーンに目を留めた。仕事柄首周りのモノには気付きやすいのだ。それは、急所により近いから。メイリーが首にしている細いチェーンは、そういった金属系のアクセサリーらしいアクセサリーをしない彼女との組み合わせは、オレにちょっとした違和感を与えるものだった。
「え、ええ?
なんのこと?」
オレに言われて慌てた様子でメイリーは聞き返した。オレが指差した先が自分の首元であるのに気付くと、僅かに逡巡した様子を見せてから彼女はそれを引き出した。その細いチェーンは、何かを繋ぎとめるようにしてシンプルな女物の指輪を提げていた。
「ん、大事なモンなら無くさねェようにしろよ。戦闘中とかに引っかけんじゃねェぞ。」
「……大丈夫よ。大切にしまってあるから。」
その瞬間、メイリーはふと遠い目をした。思い出に心を馳せるようにして。
「でも、ナンで指にしてねェんだ?
大事なモノナンだろ?」
それは、指にするよりも大切にされていることが一目で分かった。まるで外に出すことさえ避けて、胸の中にしまい込んでおくようにして、彼女はそれをそっと捧げ持つようにして持っていた。
「……クビにそういうモンを巻いとくのはあんましいただけねェな。シメるニャ最適だぜ?」
その、明らかに特殊な扱いに、わざと意地悪く、横目で冷たく言い放つ自分の言い方が明らかにイヤなものであるのが自分でも分かって、オレは自分に嘲笑を浮かべる。だが、そんなオレの物言いに動じた様子もなくメイリーは微笑みを浮かべたままだった。
「でも大切なものなのっ!」
少しだけ怒ったように、それでもどこか自信に裏打ちされた彼女の微笑み。揺るぐことのない。
「ボクはいつか来るときまでしっかりと、忘れないようにこれを持ってる。捨てたんじゃないなら、いつか戻ってくるから。ね?」
なぜかメイリーは、最後にオレに向かって相槌を求めた。その、ひたむきに信じたことを疑わずに、“そのとき”へと向かっていく力に満ちた純粋な意思に、思わずオレは気圧されて頷く。
「も~、でも鈍いのは昔からだし、まだまだ始まったばっかりだもんね?」
そうオレに言うと、メイリーは悪戯っぽい笑みを浮かべてウインクして見せた。オレはその言葉がオレを指していることに気付いて眉をしかめる。悪いがいくらなんでもそこまで鈍くは無い。
「ダレがニブいッてェ?」
オレが凄んで見せると、メイリーはくすくすと笑みを漏らしながらオレの振り上げた拳を躱す振りをする。人差し指をオレに向けて立てると、彼女はそれを左右に振ってオレを下から覗き込んだ。
「ふふ、いつか全部分かる日が来るよ。
……それまでは、二人分ボクが大切にしまっておくから。」
いつものことながら、メイリーの晴れやかな笑みはひと時も揺るがない。オレはその事実になぜか安堵していた。
+ + + ──Interlude── + + + そう、始まりは“揺らぎ”だった。もしくは、終わりがそうだったのかも知れない。
彼は「希薄な」存在だった。どこかの世界で、いつかの時代にそう自分のことを評し、それによって恐怖を振りまいた少年がいたが、彼とその少年はきっと近しかったのだろう。もっとも、その少年は周りから希薄な存在として扱われることに憤り恐怖を振りまいた。対して、こちらの希薄な存在は、自らそれを望んだからそうだったのだが。
そもそも、彼は初めから少し違っていた。世界の全てを見通す目、全ての声を聞き取る耳。それを全て受け止めることが出来てしまったが故に、その行為を行えない他の人間が疑問に感じないことを、痛烈な疑問として背負っていた。
この世界には、どうしてこれだけ意味がないんだろう?
人間は、何かしらに意味を見出さなければ生きていけない。そういう意味では、彼は生きていくことが出来ない不具者として生まれ落ちたのだった。
だが、彼は同類を見つけたことで、たった一つ、世界に意味を見つけることが出来た。
同類。
灰色の目で、世界の全てを見通すことを背負った同類。
彼はそれまでの、全てが灰色に染まったその世界の中で、唯一の色を、意味を見つけた。彼から虚無は消え、やっと普通の生活を始めることが出来るようになった。
見つける。
見るということは、そこに意味を与えるということと同列だ。逆説的に言えば、意味を与えるから見えるようになるのだとも言える。
そういう意味では、彼はたった一つしか、世界の中に見えるものがなかったという訳だ。しかし、ひとつでも見えるものがあれば世界は構築され得る。何もなければ世界を構築することが出来ないけれど、何かひとつでもあれば世界は構築できる。もっとも、無というのが世界であるとすれば、何もなくても世界を構築することが出来るのだが。
ともかく、彼はようやく“世界を構築”した。
だが、“揺らぎ”だ。
世界は揺らぐ。そのように出来ているのだから。そして、彼の世界は、外からの揺らぎによって完全に破壊された。
有り体に言えば、彼の見えていた唯一のものは、揺らぎによって唯の肉の塊、もしくは血袋と化した。それからすぐにそれは燃やされて、肉塊ですらなくなってしまった。世界は肉の塊から唯の灰へ変わり、再び彼に見えるものはなくなってしまった。
意味は、この世界に意味は存在しないのか?
だが、彼はそれで諦めることをしなかった。長く長く続いた、世界のない世界から抜け出し、彼は意味を求めた。
物語。意味の集合体。無意味が存在の意義として存在し得ないもの。
彼は物語を吸収し続けた。実際には、彼はそこにあった意味を吸収していたのだ。
そうして、彼は自ら意味を語り始める。存在の、その意味を。世界を構築するに足る、意味を。いつしかそのための武器は音声からペンへ、そして四角い箱へと変化して。しかし、常にその中で変わらない、“言葉”を真実の武器として。彼は意味のない世界に自分で構築した意味で立ち向かった。
たった一つ、それが彼が生きていくために出来る方法だから。“物語”を得るために、物語を語るという──。
+ + + 暗い部屋。入り口には金属製の階段が数段設けられ、その先には分厚い金属の扉が外界との全ての接続を拒んでいる。奥はずっと先、暗闇の中に沈んでいて見通すことが出来ない。
まるで何かの神殿であるかのように、その部屋には左右に柱が並んでいた。ガラスで出来た、僅かに照明を施された柱。その中は空洞になっていて、液体が満たされているのか偶に気泡が天井に逃げていくのが、微かな照明によって見て取れる。
部屋の中央には、その柱の一つを見つめる黒い染みが一つ。この神殿の司祭の如く、尊大に、唯一人で卑小に。
彼が見つめる柱の中には、人影があった。身動ぎすらしない人影が。
白い髪。もしその人影が目を開ければ、その赤い瞳が見て取れるのだろう。目の高さほどのところに薄汚れたラベルが貼ってあり、そこにはこう記されていた。
“betrayer” そのすぐ下に貼られたもう一枚のラベルには、気の遠くなるような桁数の無意味な数字が羅列してあった。もっとも、気が狂わん程に数に長けた者ならば、その数字の意味が理解できるのだろうが。だが、鉄扉で閉ざされた入り口から無数に並ぶ無人の柱の本数と、その数字が一致することを理解できる者が果たしているのかどうか。
紅をその身に纏った道化師が、部屋の中央で笑みを浮かべた。かつて、そこで暗い目をした男がそうしたのと寸分たがわずに。
彼は、鉄扉に背を向け部屋の奥へと視線を飛ばす。彼の瞳には、同じ姿をした白い髪の持ち主が、全ての柱に閉じ込められているのが見える。今はまだ、魂を持たない唯の木偶人形たちが眠り続けているのが。
いつか、彼がそこを訪れたときから変わった点がひとつ。その気の遠くなるような数の柱で眠る男が、一人減っている。それの意味するところは、彼以外に理解できる者はいない。世界に許された存在は、常に一人なのだ。今はもう、人々が知る“彼”のターンは終わった。次は、今の“彼”次第だ。
全ての柱には“裏切り者”の同じラベルと、一ずつ加算されていく数字のラベルが貼られているのだろう。男はいつまでもそのガラスの柱を眺めていた。
八日目
オレは大仰に溜め息をついた。同時に指示書を放り出す。目下のところの悩みのタネであるだけに、オレはこれ以上それを見ているのもイヤだった。
「第一ナンだ、この唐突な指令はッ!?」
オレはこのクソッタレな命令文書を持ってきたシェルに食ってかかる。だがいつものごとくヤツは気圧された様子もない。
「仕方ないでしょ。天幕のシステムがトラブってて配送が遅れたんだからさ。」
口を尖らせてで言うシェル。その仕草は計算されたかのようにコケティッシュで完全なバランスを保っていた。その表情は外見だけでいうならば、男のオレでも間違いなく可愛いと断言できる。だが、オレはそれが実際計算し尽くされた悪魔の笑みであることも知っている。という訳でオレの追及は止むことはなかった。
「大体コレ、日付からすリャ一昨日くれェには届いてねェとおかしいハズだろうがよ?」
「それはシステムがダウンしたからでしょ。基本的な通達は先にしてあったんだからさ、準備してなかったキミが悪いんじゃないの?」
まぁそれを言われるとこちらとしても厳しいのだが。確かにシェルの言うように、ここに来た時からシャインを第一の目標とすることは決まっていたし、余り後送りに出来ないということも決まっていた。そして、オレはそういう時にこそ役に立たなければならない戦闘役としてここにいるのだ。
だが、数日後にやれと言われても出来ることと出来ないことがある。
「ヤレヤレ、仕方ねェな……。」
オレはブーツに佩いたワイヤーカッターを抜き放ち刃の具合を確かめた。あのキーロッつー爺さんに鍛えてもらってから、この簡素な道具の具合はこの上なく良いのだが、それでも得物としてシャインに挑むには余りにも心許ない。
「でもさ、もう素材の確保は出来てるんでしょ?」
「オレはナンにも言ってねェよ。勝手に人のアタマん中覗くんじゃねェ。」
人の考えを覗き見て、さらに余計な口まで挟んできたシェルにそう言って黙らせる。確かに今日には確保した黒い石が届くはずだ。あの黒曜石に似た色合いの、金属並みに硬い石は武器として鍛えればかなりの業物になるだろう。その威力を充分に発揮できれば勝ち目もあるだろう。
だが、そのためには相応の技量が必要だ。今のオレの技は“クモの巣”がメインでダガーを使った攻撃はほとんど使っていない。範囲に対する攻撃である“クモの巣”に比べると、いくら威力が高くても対象の狭いダガーでの攻撃は使いにくい。
「まァソレでも……頼むしかねェか。」
罠の威力は、純粋に自分の巧妙さ──どれだけ複雑な罠を展開し、そこに誘い込めるかということ──にかかっている。それは自分の器用さに直結するもので、武器の良し悪しに関わらず安定した威力を出せる代わりに即座に威力を上げられない。シャインは案外タフだ。“クモの巣”は行動を阻害する役には立ってくれると思いたいが、それだけで相手に止めを差せるほど強力で無いことは自分でも分かっていた。
「とにかく、もう決まってることなんだからしっかりやってよね?」
シェルはオレにそう念を押すと、その二色の翼を広げて即座に消えた。自分が戦うわけじゃないからいい気なものだ。
オレはもう一度小さく溜め息を吐くと、諦めてクソッタレな指示書を拾い上げた。それを裏返して机の上に置くと、シャインが陣取る校舎の屋上の見取り図を書き始めた。目ぼしい戦闘の場所となりそうな三つの校舎の構造は前期で全て頭に叩き込んである。事前にある知識は大いに越したことは無いのだ。そしてアサシンとして非常識な方法で鍛えられたオレの記憶力は、今でもこんな方法で役に立っていた。
「“クモの巣”が使えそうなのは……ココと……」
頭の中にある屋上の風景と見取り図で罠が展開できそうなところに印を付けていく。同時にタイルが緩くなっていて相手の足を捉えられるところにも別の印を付けておく。シャインの戦闘方法は仮想訓練で充分に知っている。シャインはああ見えてもサマナーだ。サラマンダーやらミニドラゴンを呼んでくる。トラップでウィスプまで召喚するのだ。要するに好き勝手させておくと敵が増えて厄介なことになるってことだ。動かさせないに越したことは無い。
「んー、ココのタイルを使うとワイヤーの収束ポイントから遠くなるよな……ココは……メイリーが避けれねェよなァ……。」
オレが独り言を呟きながら必死で知恵を絞っていると、いきなり天幕の垂れ布が持ち上げられて小さな顔が覗いた。
「ボクがどしたの?」
「うわわわわッ!?」 答えが返ってくるとは思っていなかったオレは思わず大きな声を上げた。その声にメイリーも驚いたようで、驚かせた方のメイリーが目を丸くしている。オレは思わず苦笑を浮かべると彼女を振り返る。彼女はオレが書いていた見取り図に気付いた。
「あ~、また女の子ナンパリストでも作ってたんじゃないでしょうね~?」
「そんなワケあるか。」
思わずツッコミを入れるオレ。メイリーは指示書の裏に細かく書き込まれたその見取り図を見てもう一度目を丸くする。
「あァ、まァナンつーかねェ。ダレかさんがオレのトラップに巻き込まれねェようにオベンキョしてたのさね。」
そのオレの言葉を聞くと彼女はむっとした表情でオレに抗議した。まぁ確かにメイリーがトラップに巻き込まれたことはない訳だが。
「ふ~ん、アイのトラップなんて全部分かるのよ?
昔から罠の置き方全然変わってないんだもん。」
まぁ確かに個人個人でトラップを展開する場所に選ぶポイントには多少の癖が出る。相手が分かっていればオレのように訓練を受けた人間なら、トラップを回避できなくもない。だが、彼女にそこまで見抜かれているというのは意外だった。
「ヤレヤレ、ソイツはマイッタな。オレとしチャソレじゃコマるんだケドねェ。」
「アイってば罠使う前に絶対ボクの方意識するでしょ。後はアイの罠の範囲さえ分かってれば相手からその分離れるだけで大丈夫なんだよ?」
確かにメイリーを巻き込まないために、オレは彼女の位置を一瞬確認する。それは視線であったり風の流れであったりまちまちだが、それに気付いているとは。オレは心の中で舌を巻いた。
「う~ん、シャイン先生かぁ。前は勝てなかったから今度は勝ちたいね。」
彼女が言う前の時とは、オレがバーチャルとして過ごした訓練のことだが、それについてはオレもあまり気にしないことにした。昨日メイリーがオレに言ったように、それが幻でも仮想でも繋がっているものがあって、そのお陰で今がこうしてあるのならば、それはそれで良いのかも知れないと思ったのだ。そういう点に関しては、メイリーの方が考えがシンプルなだけ強い。色々なことを教えているようでいて、教えられているのはオレの方なのかも知れなかった。
「でも何だか懐かしいな。こういうのって。」
メイリーがふと呟いた。オレは思わず二人で覗き込んでいた見取り図から目を上げて彼女に視線をやる。だがメイリーは思い出の向こう側にある、オレには見えない光景を見つめていた。
「……あの時もこうやって、欠片さんとハルゼイさんが大慌てで……アイは難しい顔で考え込んでて……。みんなで徹夜で準備して。お祭りみたいで楽しかったな。
そうやってみんなで頑張ったからスペードに勝てたんだよね……?」
ふ、とメイリーの瞳がこっちを向いた。昔の情景の中からオレにそうやって相槌を求めた彼女は、次の瞬間に思い出から覚醒して少しだけばつの悪そうな笑顔を浮かべた。
「えへへ、アイ、覚えて……ないよね?」
そう、オレにはそんな記憶は無い。スペードというものが何なのかはもちろん欠片というヤツも、フェリシアの嬢ちゃんが探しているハルゼイの顔も知らない。
でもその状況は想像できた。何かひとつの大きな目標に向けてギリギリまで粘って、追い込まれてテンパッて。それでも妙なテンションに酔いながら必死で時間と勝負して。そのお祭り騒ぎはオレにも想像できた。
「でも、オレもその場にいたかったと思うぜ?」
彼女からすればその場に“オレ”はいたのだから、それは否定の言葉でしかなかったかも知れない。だけど、オレは心からその場にいたかったと思った。嘘を吐いても仕方がない。だから代わりに精一杯の笑顔を浮かべて見せた。それを見て、メイリーは寂しそうな笑みを消して大きく頷いた。
「うん、とっても楽しかったんだよ?」
「へへ、今度もマタギリギリっぽいケドな?」
オレは苦笑を浮かべてメイリーと二人で見取り図に戻った。そう、勝たなければ意味は無い。武器を新調し、付加を受け。これだけの支援を受けて負ける訳にはいかないのだ。
+ + + 「ウィンド殿……貴方は非常に運がいい。上手くいきそうですよ。」
笑顔を浮かべて書き付けを示すハルゼイ。だが、アイヴォリーにはさっぱり内容が分からない。横から覗き込んだメイも首を捻っている。
「これなら、あるいは勝機があるかも知れません。」
「だからナニよ、ソレは?」
全く理解できないアイヴォリーは最早お手上げらしい。だが、合成を生業にしている欠片には意味が分かったのか、その書き付けを見て頷いている。
「これは忙しいな。二日間いっぱいいっぱいで働かなきゃこれは揃えられないよ。」
欠片は書き付けを読み終わると、ふう、と大きく息を吐いた。それからアイヴォリーに向けて諦めたような視線を送る。
「仕方ないな。助けてやるから次は絶対に勝てよな。」
「だから、ナニ?」
ハルゼイはしきりに頷くと、アイヴォリーの肩に手を置いた。不審気にその手を見返すアイヴォリー。
「ウィンド殿はマジックポーションCを急いで作ってください。時間がありません、今日中に仕上げて欠片さんに渡してください。いいですね?」
「はァ?」
有無を言わさぬというのはこういう状況を言うのだろう。ハルゼイはにこやかな笑みをうかべたままで眼鏡をもう一度光らせた。
「私はガムとキャンディの作成に入ります。時間がありませんので失礼します。」
「ガム?キャンディ??」
まるで難しい数式の解を見つけた少年のような、そんな瞳の輝きがハルゼイにはあった。颯爽と立ち去っていくハルゼイ。
「……で、ナニ?」
取り残されたアイヴォリーの問いに答える者はもう誰もいなかった。
九日目
「ヤレヤレ……ヒデェ目に遭ったぜ……。」
オレは大きく溜め息を吐くと切り株で作られた簡素な椅子に腰を下ろす。大きな傷はなかったようだ。相手が“でたらめ”な人数だったのが幸いしたらしい。
「しっかし、あのオンナ……。」
オレは苦笑を浮かべるとロクでもないことになった元凶を思い出した。
+ + + + + + + + 「油断しているところを後ろから抉るのも非常に有効です。」
一度聞いたことをなぜか意味もなく強調する女。奥二重の印象的な、まぁ美人と言って良い部類に入る女だ。君島美禽、“内臓えぐえぐ団”という名前からして“アレ”な団体の代表者にして今回の仲間の一人。相方がキーロの爺さんッつー辺りからもそのアレさ加減が分からなくもない。
「……あァ、聞いたッての。」
意味もなく妙なところを強調する彼女にオレは目を細めて疑問符を浮かべて見せた。いくら頭が軽そうに見えるとは言え、今聞いたことを忘れるほどの鳥頭になった覚えは無い。……もっともそうならばそれ自体覚えていられない訳だが。
そんなどうでも良いようなことを思っていたオレは、明らかに油断していたらしい。というか、そもそもこの時間帯は戦闘が起こらない“はず”だった。
「あと、本日の内臓えぐえぐ団の聴講者は86人です。」
「ンなワケねェだろ!?」
妙にのほほんとした庭園に、話を聞いているも何もオレとキーロの爺さん、この嬢ちゃんの三人以外には人影も見当たらない。静かな……イヤ、静か過ぎた。“風”が流れていない。まるで、息を詰めているかのように。
「あるのですよ。なんと申しましょうか、そう――アイヴォリーさん人気というものです。」
オレはすぐさま立ち上がった。口上に気を取られて油断しすぎていた。この嬢ちゃん、“ユダンタイテキ”ッてヤツを地で教えてくれるつもりらしい。
「ご紹介します。被害者の会の皆さんです。」
淡々と、だがどことなく嬉しそうに言う嬢ちゃん。キレイに囲まれている。被害者の会ッつーのは良く分からないが、まぁ何と言うか無意味にキレイどころを集めたようだ。中には見知った顔もいる。
「……コレ、計画的な待ち伏せだよなァ?」
「いいえ。座学に続いてちょうど良い実技の時間です。」
実技と言うか、向こうにとってはそうかも知れないが無闇に攻撃できないオレにとってはそれですらない気がするのはオレの気のせいか。
「……盗賊も真っ青の悪質な言質だぜ、それ。」
諦めて溜め息を吐き、渋々周りを見回す。辺りのお嬢さん方は一様に思い詰めた──もしくは単に殺意に満ちているだけかも知れないが──表情で思い思いのエモノを構えてにじり寄って来る。
「……ッつーかアレか。一応聞いとくが、コレはウワサに聞くオレの被害者の会か。」
少しずつ状況が把握できてきたオレは、今さらながらに無意味な質問をしてみる。まぁ確かに、オレがフェイバリットな時間をしっぽり過ごした面々が揃っていると言われるとそうかも知れない。無論はっきり覚えがあるのはその中の数人だけだったが。
「ッてオイ。」
質問に対する答えが全く返ってこないので、思わずオレはキミドリの嬢ちゃんを振り返った。いつの間にか彼女は包囲の輪から抜け出して爺さんと二人でナニやら日和見モードに入っている。
「ヤレヤレ、仕方ねェな……。」
オレは色々な意味で色々なものに呆れながら──無論このステキすぎる状況を招いた自分の言動は棚に上げつつだが──肩を竦めた。人差し指を振ってお嬢さん方にウィンクして見せる。
「お嬢さん方、アツい夜が忘れられねェッつーキモチは分からなくもねェケドも、ちっとばかしアプローチの方法がカゲキスギるぜ?
どうしてもヨリ戻してェッつーなら考えなくもねェケドな?」
この場合火に油、というのは適切な表現だろうか。妙な連帯意識でオレを完全に敵だと認識してしまっているらしい八十余名は明らかに殺気立って包囲の輪を詰めた。どうにも交渉の余地は無いらしい。
「オイ、一応もうひとつ聞いとくが──」
二人の方を振り向いたのが引き金になったらしい。キレイに輪になっていた人波が一気に崩れた。
「あァクソ、もう一回イタされてェヤツはど──ちょ、待っ、せめて決めゼリフくれェ言わせろッ!」
雪崩を打って飛び掛ってきた中の一人目の首に手刀を入れながら、オレは言葉になってない叫び声を上げた。
+ + + この後オレは、どうにかその八十余名を素手で気絶させるとぐったりとして座り込んだ。まぁ中には当たり所が悪かったのかぴくぴくしてるヤツが数名いたような気もするが、この人数をしてこの結果ならば許される程度というかどう考えても上出来の方だろう。どうにか最悪の状況を切り抜けたオレは肩で息をしながら自分の身体を見た。致命傷がないことが不思議なくらいだ。
「……ひでェ目に…………合った、ぜ……。」
「お疲れ様でした~。」
至極にこやかに笑みを向けてきたキミドリの嬢ちゃんにオレは白い目を向ける。コイツは間違いない、オニだ。
だが、“最悪の状況”はまだやってきてもいなかった。
「……団体ってのァ、脱退も自由なんだよな?」
「はい。基本的には。」
“基本的には”が微妙に気になるところだが、とりあえずこんなところにいては身が持たない。スタッブの技術向上と自分の安全を天秤にかけるような状況は昔のそれだけで充分だ。
「じゃあこの場で即刻――」
「ちなみにここに、メイさん宛のお手紙が84通ほどありまして」
…………。オレは思わず思考停止しそうになった自分を叱咤してキミドリの嬢ちゃんに詰め寄った。ナニがどうなっているのか分からなくもないが、その真実を認めるにはあまりに酷な宣告だった。
「――ナンで、ソコでメイリーの名前が出てくるッ!?」
「いえ、そこで良い感じに死屍累々している方々から、
『もしものときはこれを』と頼まれまして。」
その手紙だか投書だかの束をひらひらさせながら、『何でも、自分たちがされたこと全て事細かに書いてあるとか』などと平然と、完全に他人事のように言ってのけるキミドリの嬢ちゃん。その瞬間、オレは彼女にさっき下した評価を心の中で撤回した。
コイツはオニじゃねェ。
アクマだ。
「ついでに、私にセクハラを働いた責任も、取っていただきましょうか?」
微妙に放心していた辺り、やはり思考停止していたと自分で思った。というか既に真実を認められなかった時点でやはり思考停止していたとも言える。後は手紙を書かなかった二名はドイツだったのだろうかとか、イヤイヤ連名がいてもおかしくないとか、オレはあまりにどうでも良いことを考えながら声を絞り出した。
「……ヤレヤレ、ひでェオンナに引っかかったモンだ。」
どうやらこの団体、性質の悪い新興宗教バリに脱退不可能らしい。オレは大きく溜め息をついてワナにハメられたことを今さらながらに後悔していた。
+ + + + + + + + 「しっかし、あのオンナ……。」
オレは溜め息をつくと呟いた。シーフをワナにハメるとは良い度胸だ。しかも目下のところ、深すぎて這い上がることすら出来そうにない。オレの呟きが聞こえたのかメイリーが微妙に白い目でオレに聞いてきた。
「オンナってなぁに?」
「イヤイヤイヤ、ナンでもねェ。メイリーは悪人ニャダマされねェように気をつけろよ。世間は悪人だらけだ。」
オレのその言葉に、あまりにも哀愁が漂っていたらしい。メイリーは首を傾げるとオレを見つめてくる。
「そろそろ始めますよ~?」
向こうの方から地獄の召喚状にも等しい呼びかけが聞こえてきた。まさか連日ってことは無いとは思うが、昨日の今日で油断するのはあまりにも賢くない選択だろう。オレはウッカリ刺されても良いように、服の下にフライパンを仕込んでいくかどうかを真剣に検討していた。
「せめて……昨日より少ねェとイイな。」「??」
オレの、小さく儚く切なる願いにメイリーがもう一度首を傾げた。
+ + + メイを促してそちらへ近づくアイヴォリー。そこには、一種異様ともいえる一行がいた。偽妖精、歩行雑草、怨霊犬。そして、それらに守られるように、それらを引き連れるように、ある種の威容を備え立つ、女。首から十字を下げ、修道女のような質素な黒い服を身に纏って。
「この度は。御礼を申し上げます。」
乏しい表情のまま、全く礼には聞こえないないような台詞を口にして、女は頭を下げた。対して、それを全く気にした様子もなく肩を竦めるアイヴォリー。
「レイナ嬢ちゃんだったな。一度聞いたら忘れてねェだろ?」
「自分で自分を呼ぶとすれば、ですが。」
話は噛み合っているようでいて噛み合っていない。もしくは噛み合っていないようでいて噛み合っているのかも知れなかった。
「まァオレも似たようなモンだ。未だに涼風って呼ぶヤツもいリャ、ドッカニャオレの昔の名前を知ってるヤツもマダいるのかも知れねェ。でも、オレはアイヴォリーで、タダのシーフだからな。」
「……ねぇアイ、この人……何て言うんだろう。不思議な感じがする……精霊様とも違うし、魔法の力でもないけど……。匂い、みたいな……。」
「それは例えて言うならば、ヤドリギ、でしょうか?
ですが、それはとうの昔に捨てたものです。流石に森育ちの妖精は違いますね?」
女──零無は、メイの感じた違和感をそう評した。誉められたのかどうかも良く分からないその評価に、メイは頭にハテナマークを浮かべて首を傾げている。
「ですが、今の私は私です。それで充分、不足はありません。」
口元を歪ませるような、僅かな笑みを浮かべて零無は言った。それをじっと見据えるアイヴォリーは、いつもの気の抜けた、それでいて人を食ったような笑みを浮かべてそれに答えた。
「昔から、樫の木に宿ったヤドリギは崇拝の対象だったらしいな。樫を崇めるんでもなく、ヤドリギを崇めるんでもなく。ヤドリギの宿った樫を、連中は崇拝した。今でも救世主とやらを崇めタテマツる連中はヤドリギを信仰の対象の一部に見立ててヤがるしな。
まァオレにとっチャ、アンタが昔どうだろうと関係ねェ。今のアンタはオレの知り合いで、丁度アンタがコマッてる時に、オレがアンタの近くにいた。ソレだけさね。」
そう言ってもう一度肩を竦め、付け加える。
「オレはアンタがコマッてそうだから、勝手に助けた。もしオレたちがコマッてようと、その時にアンタが何か思う必要はねェ。フィクスはシーフのウデの見せドコロだからな。使えるモンを使っただけのコトだ。」
「酔狂な方もいたもので。」
零無はそう呟くと、傍らの偽妖精に耳を近づけた。それから首を傾げ、独り言のように呟く。
「いえ、私は酔狂で生きているつもりはないのですが。」
それを聞いて、アイヴォリーがニヤリと笑みを深くした。彼女が何を言われたのかを察したらしい。
「まァ、アンタはスキなようにやんな。今日じゃムリだろうケド、明日ニャメイがトビッキリの攻魔を作ってくれるだろうさね。な?」
「へ?」
間の抜けた声を出したのは、今回はメイの方だった。アイヴォリーは攻魔のことについて適当に説明しながら自分たちの荷物を降ろし始める。最初から、今日はここでキャンプを張るつもりだったらしい。
「も~、仕方ないなぁ。零無さん、どれくらいのものが出来るか分からないけど、期待しないで待っててね?」
「いえ、貴方なら大丈夫だと思いますよ。」
お世辞にしか聞こえないその台詞は、やはりお世辞を言っているようには全く見えない彼女の口から紡ぎ出されたのだった。
十日目
オレの前には注文通りの黒い線対称が並んでいた。刃との重量バランスを計算されて僅かに長めに設えられた柄は滑り止めを施せるように細めに作ってある。光を吸い込む漆黒の刃には毒を保持させるための溝が掃いたように刻まれており、その刃自体が僅かに──目では確認できないほど僅かに──湾曲している。右と左、左右の手の動きに合わせたためだ。右用にはクモの、左用には馬車の意匠が刃に透かされていた。
オレの前に並べられた一対のダガーは正しく芸術品だった。
「ふん、ヤるねェ。正直コレだけのモンが出てくるとは、な。」
冥い目でダガーを持ってきた男を見やった。彼もいつもと変わらぬ冥い目でオレを見返している。
ふ、と風が揺らいで、並んでいたダガーのうち右の“Widow”が机に突き立つ。その刃は研ぎ澄まされていて、気持ちが良いほどにすんなりと樫の机の表面に滑り込んだ。僅かに刃が湾曲しているにも関わらず、その細い刃は“突く”という動作にも充分以上に役に立つようだ。オレは口の端で笑みを浮かべた。
「カンペキだ。」
斬るためには、刃は薄く、細くなければならない。その鋭さがそのまま相手を切り裂く際の効率を決めるからだ。そして、突くためには力を受け止めて折れないだけの強靭さが必要だ。力を伝達し切るための“針”としての強靭さが。その二つは相容れない。斬るための薄さと突くための強靭さは。それはカタナと鎧通しの形状が全く違うことを考えれば容易に想像できるだろう。攻撃の動作を追求すれば、そのための武器も異なるのだ。
しかも、その上でオレはさらに難題を突きつけた。斬る際の効率をさらに上げるために、刃を湾曲させるように頼んだのだ。無論、それは突く際に必要になる強靭さを大幅に損ねる。しかも、それは両手利きであるオレが右と左で振るう僅かな差を補正するための、本当に僅かな湾曲だった。
だが、この爺さんはオレの要求を満たした上に、さらに毒を保持させる溝まで入れてきたという訳だ。
「気に入ったようじゃな。」
「あァ。」
オレは抜き身で置かれた一対のダガーを鞘に納めた。滑り込むように滑らかに、二振りのダガーは気持ち良く鞘に。オレはその鞘ごと左右のブーツの外側のポケットに差し込むとバンドで固定する。左右の足に均等に、安堵感をもたらす適度な重さが感じられた。
そう、オレはコイツを気に入った。昔の──“涼風”の──気持ちが戻ってきてしまうほどに、オレはコイツを気に入っていた。凶暴なまでの“芸術品”だった。
「後はお主次第……負けるなよ、“今度は”。」
立ち上がって天幕を出て行くキーロの爺さんを見送りながら、オレは口の端に薄く笑みを浮かべたままで小さく呟く。“二度も同じ失敗はしねェさ。”と。
そう、“今度”は絶対に負けねェ。
現実にシフトしたあの訓練では、メイリーと肩を並べて戦った。そしてシャインに負けた。だが、今度は違う。オレは今日の動きを頭の中で組み立てながら懐から革紐を取り出し、それを丹念に柄に巻きつけ始めた。握った時にオレの手に馴染むように、少しのずれも許されない。ぴたりと手に吸い付かなければそれは雑念を生むからだ。革紐も新しいものをコイツのために用意していた。新しいといってもそれ自体は前からかなり使い込んである。新しい革では綺麗にダガーに馴染まないからだ。身体に直接繋がっている部分には、使い込んでくたびれ始めたくらいのものがちょうど良い。そのために、今まで使っていた革紐とは別に訓練のときに慣らしてきたのだ。オレは普段から、戦闘で使っているものが駄目になる前にそうやって予備の革紐をストックしている。
何度か巻き直しを繰り返し、ようやく握った感触が落ち着いたのを確認してオレは小さく息を吐いた。
「次、か。」
“Widow”を抜いて、右手に握り、それでグローブを脱いだ左の手のひらに小さく傷をつける。良すぎる切れ味で必要以上に切り裂いてしまわないように気をつけなければならない。オレは手のひらから滲んできた血を確かめると、左手をダガーの上にかざした。
滴る血が、ダガーの黒い刃に飲み込まれていく。一滴、一滴。刃に滴り落ちる血が。黒く染め上げて。
+ + + 「そうそう、礼と言っちゃあナンだケドよ、面白ェモン見せてやるか。」
そう呟くと、アイヴォリーはニヤけた顔のままで右足に佩いていたダガーを抜き放つ。それで彼は、自らの左手を少し切り裂いてからダガーを収めた。そして今度は架那から受け取った新しいダガーの鞘を払い、自分の右手の下にそっと翳した。手の平から流れ落ちた血が、新しいダガーの刀身を赤く染める。
「こうして、ッと……これでヨシ。」 一人ごちて呟くと、滴った自らの血を新しいダガーから拭い、鞘に戻した。包帯を取り出そうとしたアイヴォリーを遮って、ディンブラが一言、二言呟くと、手の平の傷は僅かな痕を残して癒された。
「へへ、アリガトよ。」
「で、今のは何なんだい?」
不思議そうな様子でアイヴォリーの儀式を見ていた架那が尋ねた。手の平を物珍しそうに見やりながら、サスガだな、と妙なことで感心していたアイヴォリーが頷いて答える。
「ん~、まァ迷信さね。暗殺者でも、現実以外のモノを信じないワケじゃねェ、ッて珍しい例かな。」
自嘲気味にくすり、と笑ってからアイヴォリーが説明する。
初めて使われる、新しい獲物を手にした暗殺者は、今のようにしてまず自分の血を刃に与える。いつか自らの血を欲して、自らに災厄を与えないために、先に自らの血の味を刃に知らしめ、自らにその切っ先が向くことがないようにしておくのだ、と。
まァ、暗殺者だって自分の命はムダにしたくねェからな。迷信さね、アイヴォリーはそう架那に告げてから、もう一度自嘲の笑みを浮かべて見せた。
「ん~、剣の精霊との契約は無駄じゃないぜ。奴らはすぐに血を欲しがるからな。あながち迷信とも言えないさ。」
アイヴォリーの解説を、木に背中を預け腕組みをしたままで聞いていたディンブラが不意にそう言った。
「そうしておけば、その刃はあんたに向くことはない。前の短剣もそうだったろ?」
確かに、奪われたダガーは人狩りの手に渡ってもその切っ先を他の誰かに向けることなくその役目を終えた。もっともそれは、人狩りが魔法の使い手だったからなのだが──
+ 「アイっ!!何してるのっ!?」 オレは急に耳の傍でした大きな声に我に返った。驚いて目を見開いたメイリーが天幕の垂れ布から顔を覗かせている。彼女の視線がオレの手元に向けられているのに気付いたオレは自分の手元へと目をやった。手のひらから滴り落ちた血は刃を濡らすだけでは飽き足らず、かなりの量が地面へと落ちていた。
「あ、あァ。ちょっと考えゴトを、な。」
「そういうことじゃなくって!」
至極真っ当なメイリーの怒気を孕んだ指摘に、オレは反論の言葉も見つけられずに曖昧な苦笑を浮かべた。飛んできたメイリーが白魔術でオレの手のひらを癒すのを呆然と見ながら、オレはふと呟く。
「あァ、そういやメイリーは白魔術が使えたんだったな……。」
オレの何気ない呟きに、メイリーがはっとしてオレを見上げた。オレは自分の言葉が彼女に与える意味を今更ながらに気付き、少しだけ微笑んで見せた。
「アイ、それって……」
「イヤ、悪ィケド、そうでもねェ。タダ、ナンとなく、な。」
だが、前にもこうしてメイリーに傷を癒してもらったことは、確かにあったような気もした。それともそれは、単に厄除けの儀式がもたらした幻想だったのだろうか。オレには判然とはしなかった。
「さて、と。」
オレは“Widow”に流れた血を拭うと、今度は“Maria”と取り出して今度は反対側の手のひらに傷をつけた。メイリーが呆然とオレの方を見つめている。わざわざ癒したのにまたこれではまぁ当たり前だろう。オレはメイリーが口を開く前に機先を制して言った。
「んー、ナンつーんだ。エモノッつーのはそのウチ自分に向くんだよ。血を吸ってるとな。使ってるヤツの血を欲しがるようになる。だから、そんなコトにならねェように、先にこうして吸わせとくのさ。まァオマジナイッてヤツですかね。」
今度は適度なところで切り上げて、オレは刃に付いた血を拭った。迷信と言われようとこれだけはやっておかなければ気が済まない。メイリーは半ば呆れた表情でオレの右の手のひらも癒してくれた。
「も~、自分で傷増やしてどうするのよ。」
「まァそういうなッて。コレで準備はオーケィだ。」
そう、今からシャインが待つ校舎に乗り込んでヤツと勝負だ。ここまでのお膳立てをされておいて、今度は負けられない。
「“前”の借り……キッチリ返させてもらうぜ?」
オレは口の端に浮かべた笑みを深くすると目の前の校舎を見上げた。メイリーを振り返ると彼女は僅かに緊張した面持ちで無言のまま頷いた。
「安心しな。オレたちは二人だ。サイコーのコンビのな?」
「うん♪」
強張った彼女の顔が僅かに綻んだのを見て、オレはゆっくりと校舎の扉を開けて薄暗い中へと足を踏み入れる。
+ + + 屋上の扉を開くと、そこには記憶通りの地形があった。細部まで完璧な自分の記憶力に少しだけ満足してオレは自分を鼻で笑う。勝負はこれからなのだ。
記憶の中にあるのと寸分の違いもない景色の中で、シャインが踊り狂っている。それもまた、訓練で見た姿のままだ。その周りにシャインにのされた連中が転がっていることすらも。
「次は君たちかい?」
オレたちに気付いた踊り狂いが、こちらへとそのにこやかな笑みを向けた。オレはせり上がってくる笑みを隠し切れずに口元を歪ませ、冷たい笑みで待ち受ける。
「始めようぜ、マカブルなダンスをよ!」
「どんな物語で魅せてくれるんだい?」
微笑みを浮かべたままのシャイン。だが、その前には揺らぐ陽炎とともに伝説の幻獣の姿をした小さな生き物の影がぼんやりと現れ始めている。
「風よッ!!」
オレは全ての知覚を動員して、相手の動きから効率良くこの得物を叩き込むルートを把握しながら揺らぐ影の横を駆け抜ける。メイリーの魔弾が風を切ってシャインに届く。オレの投げた小さなナイフに結ばれたワイヤーは屋上のタイルの隙間を綺麗に縫って跳ね返り、半ば倒れ掛かった手すりに巻きついた。滑り出るようにして、二振りの凶暴な芸術品がブーツからオレの手の中へと納まる。
「右と左のカマイタチ、行くぜェェッ!?」
振り抜いた刃がシャインを追い、“二度目”の教師戦が始まった。
十一日目
「右に三歩、左に七歩、後ろに五歩……と動くなよ?」
黒く塗られたワイヤーが幻獣二体を襲う。これで最後のワイヤーだ。後は罠なしで、地力でどうにかしなければならない。シャインを倒したとは言えヤツが置いていった召喚物はまだ二体とも残っている。だが、メイリーはもう立っているのがやっとの状況だった。
「ッ!」
ワイヤーで後れを取った相手を冷静に見極めて、オレはミニドラゴンへと走る。だが、それはフェイントだ。後一撃でサラマンダーは落ちる。手数をさっさと減らさなければこちらの体力が持ちそうにない。オレはミニドラゴンの目前で軽くステップを踏むと、相手の注意を引きながらサラマンダーの懐に飛び込んだ。
「感じるだろ……風乙女の一撃ッ!」
左手のダガーで相手の行動範囲を狭め、それで躱せなくなったところで右手のダガーを相手の眉間に叩き込む。ゆっくりとサラマンダーの姿が薄れ、それで相手が元の世界に送り返されたことを確認してオレは気を吐いた。
「一つッ、次ィッ!」
だが、そのオレのフェイントは余計な手間を増やしたようだった。オレの攻撃が入ると同時に、薄れてゆくサラマンダーに白い魔力がまとわりついて、メイリーが同じ対象を攻撃していたことをオレはそこでようやく気付く。
「ッ!!」
オレはもう一度舌打ちすると残ったミニドラゴンとの間合いを詰め、滑り込んで一撃を入れた。だが、一番厄介なのはコイツだ。サラマンダーと比べても格段にタフだ。まだ致命傷になる様子は無い。
相手も厳しい状態の敵から減らすというだけの知能はあるらしい。ミニドラゴンはまとわりつくオレを無視すると彼女との間合いを強引に詰めてその爪の乱打を浴びせる。体格は小さいとは言えそれでも相手は伝説の幻獣の端くれだ。オレたちと同じ程度のサイズを持っているそれの物理攻撃はメイリーには厳しすぎた。
「むーうぅー……再試験通告ー?…痛いなぁ。」
力が抜けたようにかくり、とメイリーが膝から崩れ落ちる。これで残ったのはオレとドラゴンだけだ。オレは振り回される腕をどうにか掻い潜りながらミニドラゴンとメイリーの間に割って入り、彼女が下がれるように少しの間時間を稼ぐ。オレが抱えて下がらせてやれればいいのだが、相手に背を向ける余裕はなかった。
「ちょっとソコで休んでな。すぐに終わらせッからよ。」
背を向けたままでメイリーに声をかけると、どうにか自力で彼女が安全な場所まで下がるのが気配で分かった。ざっと見て後一撃か二撃といったところだろう。オレの方も連打をまともに受ければ立っていられるかどうかは怪しいものだ。
そのときに、風の流れが変わった。
僅かな、相手に風が集まるその感触。そして体感出来るか出来ないかという程度に上がった周囲の温度。
「来るッ!?」
オレの中のどこかで、掛け金が外れるようにして何かの記憶が掠めた。荒れ果てた岩山、その上に聳える赤い巨体。──焼けるような風。
オレはとっさに相手との間合いを詰めた。準備動作が同じようにあるならば、その前には隙ができるはずだ。口を開いてその特殊な呼吸を始めた相手に対してオレは一直線に走り込む。
「間に合えええええッ!」
ぎりぎりのタイミング。頭を反らせて露になったその首に、オレはとっさに左右のダガーで切りつけた。メインである右の一撃が確かに相手の存在を断ち切ったのを感じながらオレは思い切り地面を蹴って飛び退った。
薄れ行くその蜥蜴に似た頭、大きく開かれた口から火弾が覗く。それは小さいとは言えオレの頭ほどのサイズがあった。
「ふッ!」
気を吐いて、相手の頭から弾道を予測し右に跳ぶ。僅かに遅れてオレがそれまでいた場所を炎の吐息が薙いだ。転がって立ち上がるとオレはようやく笑みを浮かべて呟く。
「魔法も避けれねェとな。こちとら避けるのがお仕事なんでよ。」
だが、最後の気力を振り絞ってブレスを撃ち出したその幻獣は、もう掻き消えたようにして元の世界へと送り返されていた。オレは小さく吐息を吐くといつもの笑みを浮かべてメイに歩み寄った。
「メイ、良くガンバッたな。もう大丈夫さね。」
+ + + 「ヤレヤレ……ホントにヤるのかよ?」
オレは小さく溜め息を吐くと肩を竦めた。ようやくシャインを倒して休めると思っていたらこれだ。
「……さて、日頃の薪砕きの自主訓練の成果も……見せてもらおうか。」
槌を肩に掲げ、爺さんがじわり、と間合いを計る。オレは相変わらず平立ちのままだ。正直あまり今の状態で面倒なことはしたくない。シャイン戦の傷は回復されたものの、今日も暴れ兎やらおしとやかやら面倒な相手が待っているのだ。これ以上自分から厄介ごとを増やすのはゴメンだった。
「ツレをエグるのは趣旨に反すると思うんだケドねェ……。」
だが爺さん──キーロはオレの意見を聞いてくれる様子もない。微動だにせずに、ただ静かにオレとの間合いを計っている。オレはもう一度、今度は心の中で溜め息を吐くと片頬にひねくれた笑みを浮かべた。爺さんが担ぐウォーハンマーはオレのキリングダガーと同じ、黒い石から精錬されたものだ。装備を作るのに打って付けのあの石から作り出した武器に爺さんの体格が乗ればその威力がロクでもないものになるのは明らかだ。
なぜかオレは、あの新興宗教バリに退団不可能な同好会で味方と死合う破目に陥っていた。何でも「真剣勝負の最中に繰り出せること」が必要だそうだが、その意見には頷けてもそもそも味方と真剣勝負をする気はオレには無い。シャインとの戦いが終わってようやく一息つけそうな今このときではなおさらだ。
だが、その“味方”はやる気充分で今このときもオレとの間合いを計っているのだった。
後……半身分ッてトコか。
当然両手持ちの戦槌とオレのダガーでは間合いの差は歴然としている。かと言って下手に下がろうとすればその瞬間に出来た隙に襲い掛かってくるのは間違いない。……が、それはともかくとして、この爺さんはウォーハンマーでどうやってエグるつもりなんだろうか。
「ッと……!!」
オレの考えの隙を読んだのか、オレが益体もないことを考えた瞬間に爺さんは間合いを詰めてきた。斜めに振り抜かれたその一撃を身を反らして危うく躱し、さらに返されたもう一撃を身を沈めてやり過ごす。爺さんが元の体勢に戻り、オレは半歩下がったところでゆっくりと立ち上がった。
「
……ふむ、見切りおったか。」
一挙動で必殺の一撃を送り込み、さらに返す一撃で相手の反撃を封じる。その動きは完結していて相手の割り込みを受け付けない。その早さも動きも槌という武器から想像される攻撃とは全く異なっていた。
もう一度最初の体勢に戻ったオレたちは、さっきと同じようにして静かに間合いを計りながら向き合っていた。いわゆる“千日手”というヤツか。だがオレから仕掛けるつもりはない。そこでオレは今の一撃で分かったことを“武器”として使うことにした。
「爺さん……あの“英雄”と同じ郷の出身か?」
片頬を僅かに歪めて冷たく。相手の一撃を刹那で見切ったという優位を最大限に利用して。オレは薄く笑みを浮かべて爺さんを追い込みにかかる。
「だケドソイツ、元々はオノの動きだよなァ。そのウォーハンマーじゃ、イマイチキレにかけるんじゃねェか?」
「あの男……知っておるのか?」
オレの言葉は予想以上に効果的だった。唸るように小さく、爺さんはオレをねめつけてそう呟く。
そう、オレはアサシン時代に、同じようにして戦斧を軽々と使い、攻防一体の流れるような斧技を繰り出す男と向かい合ったことがあった。その男は冒険者の中では有名だったらしい。オレたちアサシンを敵に回しても全く動じない、肝の据わった男だった。その名、グババ=ナイツは戦いの中に身を置く者ならば知らぬ者は無いとまで言われていたのだ。
+ + + 一瞬だけ、静けさが戻った。冒険者の最後の一人が動いていなかったためだ。涼風の胸ほどまでしかない背丈に重厚な金属鎧を纏った彼はドワーフか。彼は自らの身体ほどもある両刃の斧を構え、扉の前に立ったまま身動ぎもしない。
「ここは……通さぬ。」
そのドワーフの声が再び戦闘の口火を切った。涼風が走りこみ、それに合わせて弓手が必殺の矢を射る。涼風でも一人では防ぎきれない連携だ。
放たれた矢を斧で払い、ドワーフと涼風の視線が一瞬だけ絡み合った。その揺るぎない意志を秘めた眼に、涼風は無表情な冷たい視線で応える。
矢を落とし無防備となった懐に飛び込み、涼風は鎧の隙間を穿つようにダガーを放った。
金属が触れ合う乾いた音。涼風が必殺を確信して放った右の一撃を、ドワーフは体を僅かに涼風に向けてずらすことで間合いを逸らし、鎧で受け止めた。
出来る、な。
普段戦闘に何の感慨も抱かない涼風が、その時にふとそう思った。だが、その間にも身体は無意識に左の一撃を叩き込むべく動いている。
その時に、兜の下でドワーフが少し笑ったように見えた。師匠が弟子の技量を見切りまだまだだ、そう語りかけるような笑みで。
同時に涼風の死角から襲った拳が、ダガーより早く涼風を弾き飛ばした。無理な体勢から放ったとは思えないほどの重い一撃に、涼風は止むを得ず力に逆らわないようにして自分から身体を飛ばす。でなければ戦闘に差し支えるほどの怪我を負ってしまうからだ。
派手に吹っ飛ばされて受身を取り、起き上がった涼風が見たものは、暗闇に向かって投げつけられた巨大な斧だった。
ドワーフの夜目か、戦士の勘か。弓手を捉えた一撃は正確に弓手の命を奪ったに違いない。闇の向こうで弓手が倒れる音が聞こえた。
ゆっくりとドワーフが涼風に向き直り、腰の小剣を抜く。見れば鎧に防がれたダガーはその刃だけがドワーフの足元に落ちている。恐らくは止めた時に鎧で挟んで捻られたのだろう。涼風は柄だけになった得物を捨てた。
再び静寂が満ちる。片方のダガーを失い、弓手のいない状態では重装甲の戦士を倒せるはずも無かった。涼風は、残った左手のダガーを投げつけて、すぐさま背を向け街の暗闇に消えた。
+ + + 「聞かせてもらおうか。あの男の何を知っているのかを……。」
冷たく冥い目が、仄光りながらオレを見据えていた。
十二日目
「あ~、コレなァ……。」
オレはこれでもかと言うほどに気の抜けた声を出した。それからその紙切れをぴらぴらと振り回す。綺麗に印刷されたカラフルなそれが翻る様は中々ににぎやかなものだったが、それはこの問題と同じく上辺だけのものだということが分かっていて、オレは相手に気付かれないように小さく溜め息を吐く。
「それで……一体どういう組織なんでしょう?」
オレにパンフレットを奪われて手持ち無沙汰になったのか、オスカーが目の色を沈ませて呟く。コイツは多層世界の監視者だったらしい。つまりはあのクソッタレと同じように世界の外に立つ者だったってことだ。だが、コイツからはあの紅い道化師のような傲慢さは感じられなかった。真摯に傍にいる少女のことを護りたいと考えているらしい。
だケド、ソレとコレとは別ナンだよねェ。
オレはもう一度小さく溜め息を吐くとどうしたものかと思案する。この少年が“監視者”として、あのクソッタレと同じように様々な世界のあらゆる場所、あらゆる時間を渡れるのならば、今から跳躍して天幕が為してきたことを“リアルタイム”でもう一度見てくれば済むことだ。
それが出来ないということは、コイツが自分で任意の選択による多層世界跳躍が元々出来ない受動的なタイプの“観察者”であるか、もしくはこのムラッ気のある少女──ルーシファーという爆弾──との関係性を構築したことによって、跳躍の制限を受けているのかのどちらかだ。
とにかく、様々なものを見てきたこの少年に深く追求させるのは危険だ。
そこまでを考えて、オレはふと我に返った。一体なぜそんなことを、オレが詳細に知っているのだろう。そして、どうしてコイツが深みに入ることにストップをかけようとしているのだろう。
それはね、僕がそう望んでいるからさ。 頭のどこかで、クソッタレの含み笑いが聞こえたような気がした。
「ッ……。」
オレは思わず舌打ちする。要するに、オレを送り込むときにあのクソッタレが断片的に自分の知っていることを流し込んだということか。自分の、望む方向に物事がうまく流れるように仕向けるために。オレはそのやり方に舌打ちしたのだ。
だが、それを自分に向けられたと思ったのか、少年がオレの目を覗き込むようにしてこちらを見た。嬢ちゃんもオレの不穏な気配を察したのか僅かに眉を寄せている。オレは自分の迂闊さを呪った。
「んー、まァアンタなら知ってるかも知れねェケドな。要するにクソッタレの集まりだってコトさね。ソイツは対外的なモンで、ウソは書いちゃいねェが全ての真実も書いてるワケじゃねェ。」
取り繕うように。だが、確かに天幕の実態がもうひとつあるというのも本当だ。問題はそれが途轍もなく危険だということなのだが──。
「どうしてそうする必要が?」
オレはその問いに肩を竦める。流れが良くない。このまま話せば拙いことをぺらぺら喋ってしまうか、もしくは強制的に話を打ち切るしかなくなる。それはあのクソッタレの考えを別にしても、この二人にとって良いことにならないのは確かだ。
「んー、天幕ッつーのはナンつーかねェ。特殊な能力者のアツマリなのさね。そういったヤツらを集めるためニャ、ある程度表立ったコトをする必要もあるダロ?
んでも、連中もそうそう自分らのヤッてるコトを、ナカマウチ以外のヤツらに知られたくはねェ。コレからの活動に影響しねェとも限らねェからな。」
それでこの少年は理解してくれただろうか。仲間内以外には公に出来ないようなことをやっているのがこの組織だ、と。オレの願いが通じたのかどうかはともかく、少年はオレの手にあるパンフレットにもう一度目をやると沈黙した。
「とりあえず、アソビ半分で深入りするのはオススメしねェぜ。カクゴ完了してるなら止めねェケド、な。」
オレは溜め息を吐くと偽りのパンフレットを少年に投げ返した。その薄っぺらい紙切れはふわり、と風に乗って彼の前に置かれた机の上に着地する。オレは少年が押し黙ってそれ以上質問する気がなくなったのを見て、肩を竦めると部屋を出た。
+ + + そう、本来ならばあのような二つ名を付けることも止めてやらなければならなかったはずなのだ。面白半分や中途半端な連帯感のためにやっていいことでは無い。そもそも天幕があの二人を受け入れたということは、天幕として何かの目論見があってしたことなのだ。天幕は能力者を欲しがっている。天幕の“戦力”とは、卓越した科学力や情報ではない。無論それらのものは作戦を遂行する際に強力な助力となる。だが、それはあくまで助力であり戦力そのものではないのだ。
天幕の“戦力”。能力者。
そう、天幕が常に必要としているのは、わざわざ自分たちの存在を世間に知らしめてまでまで必要としているのは、能力者自身なのだ。それがあのクソッタレのように世界を超えるようなものであればなおさらに……。
天幕は、必ず求めたものを手に入れる。
オレは天幕を知る人間が天幕に対して下す評価を思い出して目を細めた。そう、もう遅いのかもしれない。あの少年が天幕の庇護を求め、天幕がそれを受け入れたその時点から既に。イヤ、それどころかあのクソッタレにはそれよりもずっと前から見えていたのかもしれない。ヤツにはその能力があるのだから。オレは運命に絡め取られた二人のことを思って空を見上げた。少しずつ冬の気配が忍び寄って、空が塗り潰された平板な色へと変わりつつある。オレは風の冷たさに少しだけ身を竦めた。
もう……逃げられねェかもな?
どうでも良いことのはずだ。だが、オレのどこかにはイヤな予感があった。背筋が寒くなるような、そんなイヤな予感が。二人が天幕に吸収されることでオレに影響があるとは思えない。だが、それでもなぜか感じるその予感を振り切るようにしてオレはゆっくりと息を吐き出す。息が白い。
「今年の冬は……寒くなりそう……か……。」
これからの戦闘のこと、メイリーのこと、オレ自身のこと。いくらでも考えなければいけないことがあるというのに、どうしてもオレはあの二人のことを振り捨てられずにいるのだった。
+ + + 「『象牙』。お前の今の行為を背信と見做し、『金色』の安全の為に排除する。」 澄み切った、感情すら感じさせないその声の持ち主は、銀の髪と瞳を持っていた。アイヴォリーよりも一回り以上小柄なその影は、少女の風貌に似合わぬ冷酷な声で死刑執行の宣言を口にした。 だがアイヴォリーは一瞬目を細め、動じた様子も無くマジカルパンプのカプセルを口へ放り込む。彼の視界にクスリによるオーバードーズで「魂の緒」を繋ぐ結線が見えた。一人なら逃げられた。 彼の左眼が魔力に耐え切れず血を噴き出す。彼女の心だけは守りたかった。 一太刀目をフェイントで浴びせかけ、弾かれたダガーが宙を舞う。同じ世界に住むべき存在ではなかった。 首元に肉薄した彼のダガーが少女の首を拘束する輪を断ち切る。 彼女の長刀が腹に突き立てられた。「さあ、戻ろうぜ、あのお屋敷へ。」
+ + + まだあの少年を──僕と同じような能力を持つ彼を──此処に招待するには早い。此処を今訪れてしまえば、恐らく天幕は『吸収』か『排除』かの二択を彼に迫るだろう。僕から教えてしまうのが最も手っ取り早い手段ではあるのだが、それでは可能性の拡張どころか削除にしかなり得ないのだ。彼には自分で選択が出来るようになるところまで自分で知ってもらわなければならない。 実験体のときならば設定してやった“空白”をトリガーにして簡単に操作できた。だが、それの代役としてあの赤い瞳の少女が機能するかどうか。僕の創造物ではなく、しかも運命の束縛を振り切るほど強力な力を秘めた彼女では、彼を思い通りに動かせるかどうかも怪しいものだ。 僕は溜め息をつくと机から目を上げた。“願わくば、彼が運命を超越するだけの力を得んことを。”と書き記そうとして止めたのだ。そう、彼には自分で乗り越えてもらわなければならない。僕の二の舞では困るのだ。
同じ“世界を見通す目”。それを持つ彼と僕が本当に向かい合える日はいつ来るのだろうか。そのときに、彼は僕と同じ方向を目指しているのか。それとも敵対するのか。僕は似たような役割を与えられた彼が、僕と争うことにならないように願っていた。
だが、僕はその気持ちも今は押し込めておかなければならない。あまり僕が肩入れすれば、それは実験体にまで影響を与えてしまう。
「可能性を……拡げてくれよ……。」 僕は口の中でそう呟くと、もう一度彼らを映す端末の画面に目をやった。その少年に、僕は恐らくは、かつての自分を重ね合わせていた。
十三日目
「ヤレヤレ……こんなコトオレにヤらせて大丈夫なのかよ……。」
オレは呆れた独り言を呟いた。ベッドには軍服を着崩した若い男が眠っている。そのエンブレムはフェリシアの嬢ちゃんと同じものだ。コイツを見つけた時の嬢ちゃんの慌てようからするとどうやら知り合いだったらしい。オレたちがこの兄ちゃんを拾ったときには死に掛けてたんだが、一応山は越えたらしい。今のところその呼吸は生死の境を彷徨っている人間のそれではなかった。
嬢ちゃんはコイツを見つけると、オレと神父を駆り出して手術を始めた。どうも銃か何かで撃たれていたらしい。だが、神父はともかくオレが何が出来るかと言われれば非常に困る。オレの世界には嬢ちゃんの世界のような高度な医療技術はなかったし、代わりに治癒魔法があった。天幕ではポッドの中で適当に眠っていれば傷は癒えた。嬢ちゃんの技術はそのちょうど間にあるものらしく、オレはほとんど手持ち無沙汰で適当に雑用をこなしただけだったのだ。
そして、今もこうして“大切な”仕事を預かっている。何かの薬液が入った袋が傍らに吊るされていて、そこから伸びたチューブがコイツの腕に刺さっているのだ。オレはそのチューブの中ほどにある水で出来た砂時計のような良く分からない代物を見つめながら、一定の間隔で水滴が落ちるように見張っているのだった。オレには何が行われているのかはさっぱり分からない。だが、水滴の速さを調節するスイッチらしきものの使い方は聞いている。後はオレの時間に対する感覚で、水滴の間隔を一定に保つだけだ。自分の勘だけで時間を完全に計る訓練を施されたオレには、それ自体は造作もないことだった。
「でも……ナンかあったらどうすんだよ?」
容態が急変するか、もしくは目を覚ましそうになったら嬢ちゃんを呼ぶことにはなっているのだが──。
「うぅ……。」
拾われた男が呻いた。確かに嬢ちゃんが言っていた時間よりも僅かに早いくらいで、そろそろ彼女が言っていた目を覚ます頃合だ。オレはソイツを起こさないように静かに立ち上がると、嬢ちゃんを呼ぶために部屋を後にした。
+ + + 「曹長……分かりますか?」
嬢ちゃんがその若い男に声をかけるのを、オレは壁に背中を預けて何とはなしに見つめている。嬢ちゃんから聞いた話では、コイツはアッシュ=ソーダー、嬢ちゃんと同じ部隊の仲間だったらしい。そして、それは取りも直さず嬢ちゃんが探しているという部隊の他の連中──ジンクとかいうおっさん、そしてハルゼイという青年──とも同じ部隊の仲間だということを意味していた。
メイリーは、そのハルゼイという男が、オレの知らないオレと会ったことがあり、一定以上の関係──お互いに“戦友”と呼べるのならばそれも間違いないだろう──にあったと言っていた。それならば、このアッシュという男からも何かを聞き出せるかもしれない。そう思ったのだ。
「お嬢……ここは?」
薄っすらと目を開けたアッシュという男が言う。嬢ちゃんは安心させるように彼の肩に手を置くと微笑んで声をかけた。
「もう大丈夫ですよ。ウィンド先生やケーニッヒ神父のお陰で、私でも手術を成功させることが出来ましたから。」
減点1。起きたばっかりの患者に自分の施した治療の技量に関して不安を抱かせるのはあまり良いやり方じゃない。そんなどうでも良いことを考えていたオレの方へ、辺りを見回した男の視線が飛んできた。
「ウィンド……てめぇ、アイヴォリー=ウィンドかっ!?」
ついこの前まで死に掛けていたソイツは、驚くべき精神力で嬢ちゃんの手を振り払うと身を起こした。その視線は明らかにオレに向けられている。しかもあまり好意的な類のそれではない。オレは自分がまた何か新しい面倒に巻き込まれつつあることを自覚して、心の中で溜め息を吐いた。
「……クロードを……クロードをどうしたっ!?」
「曹長!
まだ動いてはいけませんっ!!」
その男──アッシュは、驚嘆すべき生命力でベッドから飛び降りると嬢ちゃんの制止を振り切り、オレに走って詰め寄った。ケープの首元を掴まれたオレは無言のまま、冷たい瞳で兄ちゃんを見つめ返す。怒りに我を忘れているのか、彼は傷を気にするような様子すら見せずにオレを睨み付けている。オレはちらりと兄ちゃんの肩越しに嬢ちゃんへと視線を送ると薄い笑みを浮かべて彼に視線を戻して口を開く。
「オイオイ、ダレだソイツは。悪ィケドそんなヤツは知らねェな。第一ダレだテメェは。」
「てめぇ、何抜かしてやがるっ!
クロードの紹介で、あのひでぇ島で会ってるだろうがよ!
あの後クロードはどこに行ったんだっ!?」
その瞬間。鉄拳が飛んできた。もちろん“見えて”はいたが、ここで避けてどうにかなるものでもない。オレは敢えて一発もらってやると、自分から大げさに吹き飛んでやった。さり気なく受身を取りながら腕で手術用具の乗った机を引っかけて倒す。結果、音だけはやたら派手にオレは自分に転がった。頬を拭ってゆっくりと立ち上がる。相変わらず兄ちゃんはオレを怒りに燃えた形相で睨んでいた。
「曹長……隊長と……曹長も隊長と会われたのですか?」
「あぁそうだ!
そのときにこいつはクロードの戦友気取りで居やがった。あの時は髪も長くて眼帯してやがったけどな、でも間違いねぇ、絶対にあそこにいたのはこいつだ!」
嬢ちゃんの問いにまで怒りの色をにじませて、背中越しに兄ちゃんがそう怒鳴る。ヤレヤレ、軍人はドナッたり殴ったり乱暴でコマるぜ、などとどうでも良いことを心の中で呟きながらオレはもう一度口の端に薄っすらと笑みを浮かべた。
「もう一度言うぜ。悪ィケドな、オレはそんなヤツのコトは知らねェ。」
「ふざけやがって!
ラボに大量の血の跡があった!
クロードをどこにやりやがったっ!!」
嬢ちゃんに身体ごと制止されながら、兄ちゃんはオレにもう一発パンチを繰り出した。だがオレもそうそう当たってやるのも気分が悪い。
「オイ、オレをどうにかしてェなら雑なパンチは止めとけ。その腰に下げたリッパなエモノがあるだろうがよ。」
見切って受け止めた拳を、わざと脇腹につけられた傷に響くような角度で軽く捻る。まともな訓練もしていないケンカじみた拳で殴られるほど鈍ってはいない。痛みに呻いて屈み込んだ兄ちゃんと、それを介抱する嬢ちゃんを見下ろしたままで、オレは冷たく呟いた。
「……次に素手で向かってきたら、殺すぜ?」
そのまま背を向けて保健室を出た。殴られた頬が疼く。後ろから追ってくる二人分の呼び声を無視してオレは自分の天幕へと戻り始めた。
+ + + そう、実際にオレがアイツと素手でやりあったら、オレはヤツを殺してしまう。そもそもオレが仕込まれたのは相手を適度に痛めつけて戦意を奪う喧嘩の仕方ではない。徹底的に身体の弱い部分を狙って相手を破壊する、殺しの技なのだ。あの様子ではアイツは人を殴り慣れているのかも知れなかったが、それはあくまで殺さないための攻撃であってオレのそれとは違う。次元の違いではない。純粋に目的が、方向性が違うのだ。
「……クソッタレ……。」 小さく毒づいてまだ朝の光も差し込まない廊下を歩く。何かが擦り切れていくようで酷く苛立たしい。なぜか無性に、あの小さな妖精の無邪気な微笑みが見たかった。
「今度は……ナンだよ。」
気配に気付いて足を止めた。廊下の先、暗闇に沈む行き当たりの扉に小さな影がひとつ。剣呑な雰囲気を発散して。オレが仲間だと知っていなければ即座に人狩りだと判断する類の。
「お主が娘に駆り出されたせいで話が途中でな。さぁ、聞かせてもらおうか。あの男の何を知っているのかを……。」
オレの半分ほどしかない身長。暗がりに薄っすらと浮かび上がる砂塵色の外套。キーロの爺さんがオレの行く手を阻むようにして佇んでいた。
「……マッタク、カンベンしてくれよ……。」
思わず泣き言を漏らすオレ。徹夜明けのかわいそうな非常勤講師はまだ休ませてもらえないらしい。
「何ならお主が話したくなるまで付き合っても構わんが……の。」
そう言って爺さんは自分の戦槌の柄に手をかけた。本気か冗談かはこの離れた、しかも薄闇の状態では分からない。だが、怪我人の看病で徹夜させられてあまつさえその怪我人から殴られた哀れな非常勤講師にかけるものとしては、それは冗談にしてはあまりにも悪質なものだった。
「ヤレヤレ……。」
オレは諦めたように呟いて大きな溜め息を吐くと、肩を竦めて天井を仰ぐ。まだ長い夜は終わってくれそうにもない。戦槌を肩に担いだその小さな姿は、夜が明ける前の濃い闇も手伝ってかつて剣を交えたあの高名なドワーフに見えなくもなかった。どうやら今日の夜はひたすら過去に付き纏われる夜らしい。オレは爺さんを促して校舎の外へと出ると、適当なところでベンチにどっかりと座り込んだ。
「大して話すようなコトは知らねェぞ……。
オレはな……昔アサシンだったコトがある。その時分にあの爺さんに会ったんだ。
アイツはあの頃から有名な冒険者だったらしい。オレはあの爺さんと三回……イヤ……二回、か……会ったんだよ。」
そうしてオレは、どこか、いつかに誰かにしたようにして昔語りを始めた。一度目はアサシンとしてオレが襲撃した家で、襲撃者と護衛として渡り合った。二度目はオレが天幕に来る前、ギルドを抜け出したときに偶然に出会った。まだ今でもはっきりと覚えている。オレは一度目はもちろん、二度目に会ったときですらあの爺さんとの格の違いを思い知らされた。
三度目は……イヤ、そうだ。オレは天幕に来てからはあの爺さんには会ってねェ。会ったのはその二回だけのハズだ。だが……前には確かに三度会ったと誰かに話したような気がしたんだが。
オレが大体のことを話し終えると、剣呑な雰囲気のままで聞いていた爺さんは落胆したように鼻を鳴らした。やはり価値のある話でもなかったらしい。それはそうだ。オレがヤツに会ったのは大分昔のことで、しかもほとんど会話すらしていないのだから。
「だケドなァ……爺さんよ。アイツ……グババ=ナイツは強ェぜ。あの時でも、オレよりも……そして多分アンタよりも、な。」
この爺さんが何を思っているのか、何を彼に求めているのかは知らない。だがその雰囲気だけで充分に分かりすぎるほど、それほどに剣呑な雰囲気を爺さんは発していた。
「ふん……分かるまい……やってみんことには、な。」
立ち上がって爺さんが暗闇に消えていく。オレは今日何度目かも分からなくなった溜め息を吐くと彼を見送った。
みんなが……過去に翻弄されてヤがるな。
ふとそんなことを思い、小さく舌打ちする。一番翻弄されているのは他ならぬ自分なのだ。
純粋な笑みが、メイリーの笑みがなぜか遠く、懐かしいように思えて、オレはもう一度小さく息を吐いた。
十四日目
オレはワイヤーを思いっきり引っ張ると、その端を天幕の柱に固定した。それからワイヤーカッターの柄を使って、反対側の端からワイヤーを巻き取り始める。ワイヤーカッターの柄が細く長く出来ているのはこういった罠を設置するための作業に使うためでもあるのだ。
はっきり言って地道な作業である。楽しいとはお世辞にも言えない類のものだ。だが、昔からこの手の作業に慣れたオレにとってはさほど苦痛な訳でもない。たとえその量が膨大なものであっても。
「にしても……コイツは微妙だな。」
思わずオレは独り言を呟いて手を止めた。巻き取っている途中のワイヤーを緩めると絡まってしまうので、手を止めるといっても休める訳ではない。結局全部自分でやらなければならない。どうせ他人に任せてよい類の作業でもない。それで発動しなかったら悔やむだけでは済まされないのだから。
オレはワイヤーカッターを片手に保持したままで、傍らに投げ捨ててあった紙の一枚を拾い上げた。コイツを使うのならば綿密にワイヤーを編み込まなければならない。足元や机の上に散らばった山のような紙の中から必要な一枚を見つけるだけでも骨が折れる。オレは自分に舌打ちした。
今、オレは新しい罠を考えていた。自分の行動によって発動する能動的なものだ。今の“クモの巣”では効果が薄いと考えたからだった。
そもそも、トラップというものは受動的なものと能動的なもので、大きく二つに分けることが出来る。前者はワイヤーなどをトリガーとして展開し、相手の行動がそれを発動させるもの。ピットトラップのスイッチや地雷なんかがそれに当たる。簡単なものではスネアトラップなどもこれに含まれるだろう。それに対して、後者は厳密な意味でのトラップではない。相手をその罠の効果範囲に追い込み、こちらが自分の行動によってそれを発動させるものがそれだ。こちらは狭義での罠には当たらないためにタイプとしては少ないが、相手がその場所にいれば自分で発動させることが出来るためにそのタイミングを自分で決めることが出来る。“クモの巣”は基本的には前者だが、オレは別途自分用のトリガーを用意して自分から故意にそれを発動することもある。空間に対する三次元的な攻撃である“クモの巣”は、攻撃として相手を傷つける以外にも防御用の“陣地”として使用できるという訳だ。そうやって防御的に、使い捨てる場合には相手にトリガーを引いてもらうのではなく、自分で発動させなければ意味は無い。“クモの巣”であればその軌跡は事前に完全に計算して予測できるので、設置したオレにだけ分かる範囲内での安全地帯もある。そこにいるときに発動させれば近接攻撃を一切受けることなく態勢を立て直すことが出来るのだ。
だが、今回オレが考えたのはもっとアグレッシブなものだった。完全に能動的に発動する、攻撃的な罠。相手を撹乱し、その上で動きを束縛している間にダガーで一撃を入れられるように一定時間相手を拘束できるもの。
「さて、と……。」
オレは巻き終わったワイヤーを注意してワイヤーカッターから抜き取ると腰を上げた。まずは単品で効果が出るか実験してみる必要がある。
+ + + コイル状になったワイヤーを手のひらの中で玩びながら、オレは天幕の外に出た。まだ誰も起きていないようだ。罠の実験にはちょうど良い。
「コレでイイかねェ。」
オレは立ち枯れた一本の木を選んだ。大体人間大の幅だ。高さに関しては人間と比べるべくもないが、発動範囲が平面であるこの罠ならばまぁ問題は無いだろう。
オレは木の周囲の地面に黒く塗られた小さな釘を刺していく。これだけ完全に事前に設置してしまうタイプの罠は、オレの中では珍しかった。オレは自分で罠の材料だけを準備し、戦闘中に展開できる簡素なものを使うことが多い。建物やダンジョンの中で相手を待ち受けるのならばともかく、冒険者のように移動しながら敵と戦う今の現状では完全設置型の罠は機能しないことが多いのだ。せっかく展開してもそこで戦闘が起こらなければ何の意味もない。だが、今の学園のシステムから言えば、全く役に立たないということは無いはずだ。その罠が設置された場所に戦場を設定できるのならば、後はその範囲に追い込むのはオレの腕の見せ所というヤツだ。
オレは釘を打ち終わるとそれに引っかけるようにしてワイヤーを張り巡らせていった。木を囲むように何重にも、オレは木の周りをぐるぐると回ってワイヤーを張っていく。それは傍から見れば何かの儀式のようにも見えるのかも知れなかった。一周ごとにワイヤーを固定する釘の位置は変えてある。大体十周くらいはしなければならないから、釘の総数は百程度といったところか。一人に対する準備としては周到すぎる以外の何ものでもない。
ようやくワイヤーを張り終えると、オレは残った側の、石を結び付けた端を引っ張ってその張り具合を確認した。この辺りは“クモの巣”でも慣れたものだ。大体予想したくらいの張りになっていてなおかつ設置した釘が一本も抜けていないのを確認し、オレは小さく鼻を鳴らす。オレは石よりも外側でワイヤーを最後の釘にしっかりと固定しもう一度安堵の息を吐いた。ぱっと見には草や何かに紛れて分からないが、実際に使うとなるともっと偽装しなければ役に立たないだろう。もっともそれは発動の仕掛けには関係ない部分なので後からいくらでも誤魔化しようがある。今はこの仕掛け自体が上手く機能するかどうかなのだが──。
「……ッ!」
オレは小さく気を吐き、固定していた最後の釘の辺りに小さなナイフを投げた。軽い金属音とともにワイヤーが切断され、いつもよりは澱んだ、ワイヤーが風を切る音が小さく囁く。
「……ヤレヤレ、コイツは繊細スギだねェ……。」
途中で異音が混じり、木を中心にして収束するかに見えたワイヤーは途中から木の皮を叩きながら力なく地面に落ちていた。オレは今度は落胆の溜め息を大きく吐き出す。
人一人分ほど、木を中心からずらして設置した。それだけでこの様だ。たった人間一人分ずれただけで効果を発揮しないのでは、実際の戦闘時にどれだけ役に立つか怪しいものだ。ワイヤーの巻取りが細すぎたのだろう。
オレは肩を竦めると、後片付けもせずに天幕の中へと戻った。
+ + + もう朝日が昇っている。今日中に実用にこぎつけるならば、次で実験は最後といったところだろう。オレは天幕の垂れ布を捲ると朝日の眩しさに少し目を細めた。
「あら、アイ、今日は早いのね?」
天幕から出てきたメイリーと鉢合わせた。オレは曖昧な笑みを浮かべながら肩を竦めて見せる。
「オイオイ、オレだって案外研究熱心ナンだぜ?」
確かにメイリーが言うように、お世辞にもオレの生活パターンは規則正しいとは言いがたい。それでもこういった新しいものの実験の時には、あまり人目につかないように早くから起きているときもある。──場合によっては寝ていないことも多いのだが。
例によって興味深々でオレが何をするつもりなのか見守っているメイリーに気付かれないように苦笑を浮かべると、オレは黙々と木の周りにもう一度ワイヤーを設置し始めた。巻き方を替え、それに合わせてワイヤーを替え、とやってもう五度目だ。これで駄目ならばそもそも発想自体を諦めなければならないかも知れない。
「……才能が……ねェかもな。」
ぽつりと呟いたそのオレの独り言にメイリーが首を傾げた。オレはワイヤーを展開し終えると小さく溜め息を吐く。
「よっこらせ……ッと。」
「やだアイ、おじさんくさ~い。」
どうもオレの立ち上がるときの声が気に入らなかったらしい。露骨な非難の声が後ろから聞こえたが、とりあえずは目先の問題を解決することにして聞こえなかったことにする。
「さて……近づくなよ。
……どうなるか……見てな?」
無造作に投げたナイフ。金属音。ワイヤーの風切り音。そして──
ぎっ、という鈍い音ともに、木はワイヤーによって締め上げられていた。
「うわ~、なになに、どうやったの?」
ふむ、とオレは鼻を鳴らして満足気に木を見やる。ワイヤーの弾性を考えて太い物に替えたのが良かったようだ。これならば一撃入れるまでの間は充分に相手の行動を阻害できるだろう。罠の準備に気が遠くなるほどの手間がかかり、そう何発も撃つことは出来ないだろう。ワイヤーを太くしたためにこれ自体には殺傷能力もない。相手を束縛し、その後で自分で一撃入れるためにその威力を高めるためには自分の物理的な攻撃力が必要になる。だが、唐突に相手を絡め取るこのワイヤーは、事前に完璧に敷設されているがゆえに相手の不意を付き、しかも発動が能動的であるために相手にその予兆を感じさせることもない。それは相手を混乱させる充分な要素になる。威力を完全に放棄したためにワイヤーの強度を上げることが出来たので、この機構を使えばもっと大規模に、複数人数を一気に巻き込むことも出来るかも知れない。
とりあえずは何よりも、オレは罠自体の発想が間違っていなかったことに満足していた。コイル状に巻かれたワイヤーを引き伸ばし、端に錘を付けておく。いっぱいまで張られたワイヤーの張力を利用するのは“クモの巣”と同じ原理だ。だが、“クモの巣”が直線的なワイヤーの動きを複数組み合わせて立体的な攻撃を順次行っていくのに対し、これはワイヤー一本で組まれている。相手を中心にして地面に釘で縫い付けられているワイヤーは、その端が解放されることによって元々癖として付けられているコイル状に戻っていく。端に結び付けられた小さな石が遠心力によってワイヤーを振り回し、地面にささった釘を順番に解放していく。それは一見、相手の足元で何かが弾け、それとともに黒い螺旋が相手を包み込むようにも見えた。
「一撃入れるタメに、相手の動きを止めるワナ──“螺旋の刃”さね。」
オレは得意満面の笑みを浮かべてメイリーに振り向いた。
十五日目
彼らはいつでも常に限界にあり続けなければならない。そうして常に極限状態に置かれることでこそ、彼らの性能はさらに磨かれるのだから。少しでも彼らが安全を覚えると、それによって性能は低下する。安全に甘えてしまうのだ。安全は生命への欲望を生み、切っ先を鈍らせる。それは性能の重大な低下でしかない。 彼らは常に死と隣り合わせにあることで最大の性能を維持している。それに追随できないものは不良品であり、いざというときに致命的な失敗を犯すため、性能が低いというだけにあらず、害悪であるといって良い。彼らは常に張り詰めている必要があるのだ。 その、死と恐怖に支配された彼らの戦術は、常に我を守るという基本的な事項がないために脅威である。彼ら実働部隊は、まさに死と恐怖に慣らされることによってどんな状況にも恐れを抱くことなく、自分の命を投げ打って対象を抹殺しようとする。 戦わないこと、そして対象にされないこと。これに勝る対処法はない。──アサシネイトギルドに対する調査を行った調査員の走り書き──
+ + + 「ふ~……うゥ……寒ィな……。」
オレは包まっていた毛布からどうにか顔を出すと、手を伸ばして暖房のスイッチを捻った。今朝はまた急に冷え込んだらしい。そういう日に校舎にいたのは非常にラッキーだったといえる。校舎に備えられたこの暖房は、パイプに蒸気だか熱湯だかを通す方式のもので、部屋が暖まるのに時間が掛かるがそれでもあるだけでありがたい。そもそもオレの元々いた世界にはそんなものすらなく、暖房といえば焚き火か暖炉くらいのものだった。完全に機械で温度を一定に保たれている天幕の本部と比べるのは贅沢というものだろう。
「アイ~っ、おはよ~!」
オレが毛布の中でぐずぐずしていると、いつも薄着な風の子が勝手に準備室の扉を開けて入ってきた。いつもながらに朝からテンションが高い。このクソ寒いのにある意味賞賛に値する。
「もしかして、魔法で自分の周りだけ温度上げるとかズルしてんじゃねェだろうな……。」「??」
メイリーがオレの呟きに耳聡く反応した。何と言うか相変わらずの地獄耳だ。
「イヤ、メイリーはイッツも元気だねェ、ッてな。」
「そうよ~、アイが寒がりなだけで。」
毛布を被って顔だけを出したままのオレを見てメイリーが半ば苦笑しながら言った。まぁメイリーの言うことももっともだ。ようやく部屋も暖まってきたのでオレは毛布を剥ぐと身体を起こす。
「しっかし急に寒くなりヤガッたよなァ……。」
「はい、どうぞ。早く起きてね?」
メイリーがコーヒーをオレのカップに注いで差し出す。何やらやり取りが人に聞かれると誤解されそうな感じではあるが、それを否定も出来ないくらいの素晴らしいタイミングだ。オレはケープをぞんざいに羽織るとメイリーからカップを受け取り一口啜った。
「さて……と。」
ブーツを履く。
このいかついブーツを脱げるのはこうして校舎に立ち寄った日くらいのものなのだが、やはりこの重みがないと落ち着いて眠れないような気がするのはアサシンの癖が抜け切っていないからだろうか。オレは枕元に置いた二振りのダガーを引き寄せるとバンドで鞘ごとブーツに固定した。何回か足踏みを繰り返すと金具が小さく音を立てる。オレは一度留め金を外してもう一度足を締め付け、しっかりと、オレの動きで一切音がしないようにブーツを履き直した。
次に胸当てを着ける。
机に置かれたそれも、準備室でなければ外せない類のものだ。外では野営のためにこういった装備を外して休むことが出来ない。いくら完全にオレに合わせて作られたものだといっても、何度もなめされた革の鎧を着たままでは熟睡できないので、こうやって休める日は貴重なのだが。
レザーのガントレットを取り上げる。
昨夜きっちりと手入れをして吊るしておいたそれは、冷たい感触でオレの手にぴったりとフィットした。罠の設置に使うワイヤーが充分に足りているのを確かめてからオレは何回か手を握り締めてグローブを完全に馴染ませた。
最後にケープを羽織る。
今度はしっかりと襟元の留め金を留め、しっかりと身体を包むように僅かにずらす。エルフの隠身の技術の粋を集めたこのクロークは容易に相手の機先を制することを可能にしてくれる。微妙に光を屈折させることで自分の姿を辺りの風景に溶け込ませる力を持つ魔法の品なのだ。正直レシピを教えたとは言えあの嬢ちゃんがここまでしっかりとこれを再現できるとは思わなかった。まだ改善の余地はあるものの素晴らしい出来だと言って良いだろう。
「よしッ、今日もガンバッて行きますかッ!」
オレは装備を全て身に付け点検し終わるとカップに残ったコーヒーを飲み干し、メイリーにそう声をかけた。
+ + + 「でもアイっていっつも準備にすごい時間かかるよね~?」
オレの準備の様子をずっと傍らで見ていたメイリーがそう言った。オレは今日の集合場所へと歩きながらも笑みを浮かべて頷く。
「オレはメイリーと違って色々準備があるからねェ?」
「ボクだって準備してます~。アイのとこに来る前に全部済ませてくるだけだもん。」
まぁ女にはまた違った意味で準備があるのかも知れないが。確かにオレは装備の点検や準備にかなりの時間をかける。こればかりは自分の命を──ひいては仲間の命をも──預けるものであるだけに手を抜くわけにもいかない。夜は夜でその日使った道具を完全に手入れする。鎧と手甲、ブーツには念入りに油を擦り込む。ダガーは研ぎ直し、細々とした道具類は分解し、全てを一片の曇りも許さずに磨き上げる。特に鎧と手甲、ブーツの三つは完全に特注で、普通の店では手に入れるのも難しい代物だ。これだけで実は騎士が式典で着るような完全鎧が一式買えてしまうようなもので、使い捨てていればその内に破産する。それでなくても道具というのはある程度くたびれてこなければ自分に馴染まず、かなり使い込むものだ。そんな訳で、オレは物持ちが非常に良い代わりに装備に異様なほどの時間をかけるのだった。
「さて、今日はダレが相手だったかねェ……。」
オレは適当に話を逸らすと指示の書かれたメモを探してポケットをごそごそとまさぐる。この学園では次の日に戦う相手がこうやって事前に指定される。それがここの“ルール”だからだ。本当に命に関わるようなことは少ないものの、“イキ過ぎたエンタメ”であることには変わりなかった。逃げることも、その日の戦いを事前に回避することも出来ないという点では非常に質が悪いと言えた。
「ん~とね、天文部員さんと……くま。」
「昨日のアレかよ……。」
メイリーが微妙な表情を浮かべたのを見てオレも小さく吐息をついた。昨日の今日だ、彼女もくまのことが気になっているらしい。そもそもアレを熊と呼んでいいのかどうかは怪しいものだが、昨日現れたその“くま”は非常に厄介な相手だった。タフで一撃が重く、しかもこちらの動きを鈍らせるほどの一撃を持っているのだ。昨日は何とか最後までメイリーが立っていたものの、今日は向こうの組み合わせが良くない。
「天文部員のアレは……魔法じゃねェんだよな?」
「天文部員さんの攻撃は……魔力が感じられないし、多分。」
オレがメイリーに一応確認すると、彼女はあまり自信がなさそうながらもそう答えた。そもそも敵である天文部員──しかも名前すらないエキストラだ──にさん付けするのもどうかと思ったのだが、この際それは関係ないので敢えて指摘せずにおく。
天文部員の攻撃が物理を介した射撃だとすれば、オレは僅かにそれに対しては強く、逆にメイリーは弱いということになる。だがメイリーを後ろに下げていても攻撃を受けるというのはあまり嬉しいことではない。その分今日は相手が延々と手下を呼び出すこともなくウィスプを設置するだけで、昨日のようにどうでも良い相手に彼女の主力攻撃が邪魔されることがないのが救いだが……。
「この辺よねー?」
メイリーの声でオレは我に返った。今日勝てば、明日からは少しは楽になることが分かっている。何としても成長促進の恩恵を受け続けるために今日は勝たなければならない。それは勝ち続けることで与えられるもので、一度でも負ければまた一からやり直しなのだ。そう、何としても今日は勝たなければならない。
「ん、じゃあソロソロ準備しますかねェ。」
オレは指定された小さな広場を見渡すと、罠として使える地形や障害物をピックアップしながらこれまた気の長い“準備”を始めた。
+ + + 広場にくまを連れた天文部員が──イヤ、オレからそう見えるだけでくまが天文部員を連れている可能性もある訳だが──現れた。細身で中空に視線を彷徨わせているその姿からは、一見ヤツが危険だとは思えない。だが恐らく、今日の相手で危険なのはヤツの方だ。
「よし、行くぜメイリー。」
オレはメイリーにそう声をかけ、広場へと姿を現す。メイリーも無言で頷くと、オレのやや斜め後ろに位置取って相手に相対した。オレは僅かに頬を歪めて薄く笑みを浮かべ、人差し指を立ててみせた。
「へへ……テメェらも懲りねェな。」
「準備が出来たら始めましょっ♪」
メイリーは軽くステップを二、三度踏んで身体を慣らしている。オレはケープが自分を包むその柔らかな感触と、そして足に僅かに伝わってくる、ブーツがしっかりと地面をグリップするその感触に集中する。
メイリーがオレの真似をして人差し指を立てた。
『Are you ready?』
二人の声がひとつに揃い、オレはケープで景色に消えながら低い姿勢で地面を蹴った。
- 2007/05/16(水) 14:37:17|
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島から戻ったアイヴォリーたちは街で平和な時間を過ごしていました。その間に何やらメイリーの旧友と決闘したりもしていましたが、個人宛なので割愛。
そんな中、急にアイヴォリーが姿を消します。一人取り残されたメイリーは不安に駆られながら生活し、あるときに“召喚”されます。
アイヴォリーサイドから書いたものがあったはずですが行方不明。まいったまいった。
↑と思ったら十日目にありました<何
ぶっちゃけてしまうと、島で一応の結果を得たR,E.D.は、新たな実験段階に入るために一度アイヴォリーを消去することにしたのです。
新しく起動したアイヴォリーに、それまでの知識を断片的に刷り込みメイリーの傍に置いておくことで、もう一度同じように天幕を裏切り、それまでいたアイヴォリーを取り戻せるか。“裏切り者”の運命を再び振り払って生きられるのかが実験の内容。
そのために、SSAでは島での記憶がないアイヴォリーと、彼とともに時間を過ごしてきたメイリーという、それはもう頭の痛くなるようなパラレルな組み合わせでした。しかもテストが終了し本編でもう一度同じことをやらされたために、中の人は悲惨なパラレル具合に泣いていたそうです、ええ。
ちなみに緋影の中の人が新しく加わったのもSSAから。素晴らしいまーしゃるさん。
Introは相方に送りつけてその後をメッセで話すというTRPG形式になっているため本当にIntroのみです。意味不明。
島に戻る日が近づいて。アイヴォリーは唐突に姿を消した。荷物も、愛用のケープも、勿論二振りのダガーも。まるでそもそもそんな人間は存在しなかった、とでもいうように何の痕跡も残さず消えた。彼の失踪を知る者は誰一人としておらず、それ以前に彼が存在していたことを知る者すらいなかった。彼と知り合いだった数人の友人たちはその特異な自らの故郷へと帰り、それ以外の彼を知るはずの街の住人たちはそんな人物は知らないと口を揃えて言うだけだった。
まるで、存在した証をかき消されてしまったかのように。象牙色の微風は、いつの間にか吹き止んでいた。ただ一人、小さな妖精の心の中を除いて。
「アイ……どこ行っちゃったの……?」
珍しく彼女が見せた不安の表情は、その人物が存在していたならば絶対に見たくないと思う類のものだったに違いない。だが、それを思う当の本人はどこへ行ったのか、その痕跡すら残していないのだった。
久々の孤独。全く知らない沢山の街の住人たち。たった一人きりでここにいる理由が分からなくなるほどの、そんな静かさ。つい数日前まで彼が座っていた向かいの椅子の背を見つめ、メイは小さく溜め息を吐いた。出発はもう明日に迫っている。二人分の食料と乗船券。そして冒険に必要な様々な荷物。それは今は当て所もなく部屋の隅でただ主が帰ってくるのを待っている。
「どうしたら良いんだろう?」
ルミィはグババと共に一度故郷へ戻り島で落ち合うことになっていたし、ディンブラは自らの狭間の王国に帰ってしまって連絡の取りようがない。唯一彼が残していったと言えるイヴニングスターは、ディンブラがかけた擬人化の魔法が解けてしまい話も出来ない。誰も彼を知る者は、彼女の他にはここにはいないのだった。
「帰って……くるよね?」
呟いて立ち上がった彼女の周りを、唐突に緋文字が意味を成して取り囲んだ。空間を歪める意味の術式を構成する緋文字からは、膨大な魔力が溢れ出るように、煌く残滓を宙に放っている。
「魔法……?!転送??」
その術式の意味を理解したところで、メイの意識は澱んだ虹色の色彩の中へと落ち込んでいった。
+ + + 壁を覆いつくすほどの本棚。まず目に入ったのはそれだった。ぎっしりと並べられた本たちの間には様々な時代の呪具が詰め込まれている。唯一小さく取られた明り取りの窓の下には、大仰な書き物机が設えられ、回転椅子がその高い背を向けている。来客用のソファと小さなティーテーブル。時間の止められた書斎。回転椅子がくるりと回り、部屋の主が誰にどこか似た、その傲慢な笑みで彼女を出迎えた。
「ようこそ、小さな姫君。僕の書斎へ。」
一日目
ヤレヤレ……今日から後期だ。だりィ……。つってもオレはソレホド授業があるワケでもねェんだケドな。ビジンで山モリの生徒ズならトモカク最近の盗賊志願といッチャあ、無意味に露出度の高ェ女王サマみてェなヤツとかやたら暗ェ目の暗殺者志望とか、ロクでもねェヤツしかこねェ。そんな連中は自習だ自習。盗賊のイロハを教えてヤるのもアホクセェ。時間のムダッてヤツだ。第一オレはビジンと準備室でしっぽり特別授業するので忙しいしな。まァ今期もテキトーに……
オヤ、呼び出しか。メンドクセェな……。
+ + + 「やっほー“象牙”。元気してた?」
コイツはシェル。天幕の連絡要員だ。とりあえずオレがココに潜入した前期の時に会ったキリだから……半年振りくレェか。ホントのトコはどうか知らねェケド、黒と白の羽も飾りじゃなくてモノホンらしい。天幕から連絡があるときだけ出てきヤがる。
「ナンか用かよ?」
「うん、指令だって。ちゃんと届けたから読んでよね?
昨日の放送であったでしょ。後期は実技メインだとかで、やっと天幕も活動するんだって。キミは昔から全然指令とか書類読まないんだから……。」
昔からもナニも、オレは前期の潜入命令の時に一回会ったキリでこんなヤツにそんなコト言われるホド深い仲じゃねェんだが……。まァとりあえず話がソレるのもコマるんで、オレはシェルから渡された書類を開く。
象牙
後期開始に合わせ、実際の指令の遂行を命令する。同行者は学園に在籍しているメイリー・R・リアーン、その他こちらから送り込んだ面々と合流すること。また、緋影と合流し、彼を当面のリーダーとして作戦の指示を仰ぐこと。詳細については追って連絡する。 貴君の働きに期待している。“金色”
銀十字
R,E.D.
ちなみに、驚くべきコトにと言うかやはりと言うか、ココに来た時にはこのメイリーという人物はモチロンのコト一人のメンバーの名前さえも伝えられていない。連絡を取るべき人物として書類に数名の名前が挙げられているからには、彼らもこの学園に存在するのだろうし指令も間違いないとは思うのだが。オレは胡散臭げな視線でシェルを見やった。
「そんなの、僕が知る訳ないじゃん♪」
いささか嬉しそうな声で、どうやったのかシェルがオレの思考を先回りした。オレは苦虫を噛み潰したような表情でシェルを睨み付ける。とりあえずのオレの仕事は、このメイリーとかいうヤツを探し出すコトらしい。
「そうそう、後ね。これ預かってきたんだ。渡しといて、って。」
オレがこれからどうやって潜伏しているメンバーを探し出すか考えていると、シェルはそう言って分厚い封筒を取り出した。その何の変哲も無い茶封筒の表には、ナンとも分かりやすいことに朱で「丸秘」の文字がでかでかと躍っている。裏は封蝋なのかテープなのか、しっかりと分厚い糊付けで封が施されており、その上から紅いインクでよく分からない意匠を象ったサインが為されていた。インクに魔力が込められているのか、そのサインは光の加減によって薄らと紅い残滓を煌かせながら宙に軌跡を残す。
「渡しといて……ッてテメェ、ダレにだよ?」
オレは肩を竦めてシェルに聞いた。ぱっと見初めて見たモンだし、ヒミツの文書ならウッカリ他人に渡すワケにもいかねェ。だが、シェルはオレのマネのツモリなのか人差し指を立ててウィンクしながら振ると、ニヤリと笑みを浮かべてみせた。
「誰に渡すかは自ずと分かる、って送り主が言ってたよ。そうそう、開けようなんて思わない方が身のためだろうね。呪いかけたって言ってたから。
じゃ、僕そろそろ帰るね。ちゃんと渡したからね?」
「ッてオイ、待て!ダレに渡すんだコレ!!」
シェルはオレのコトはほったらかしで来た時と同じようにさっさと煙みてェに掻き消えちまった。残されたオレは仕方なく小さく溜め息を漏らすと預かった──というか押し付けられた封筒をひねくり回して眺める。
呪いッつーコトは、この紅い封は魔法の錠を兼ねているらしい。普通の錠前やトラップのような物理的な仕掛けならともかく、魔法を介したモノはオレの範疇外だ。頼まれたって開ける気はしねェ。ダレに渡すのか分からねェのは困りモンナンだケド、要するにこの書類はオレを経由するだけで、ツマリは単に預かっておけッつーコトだろう。暗殺任務ナンかでもこのテの回りくどいヤリ方ニャ慣れてるんで、オレはアキラメてコイツをタダ預かっとくコトに決めた。
書類を机の上に放り出し、ツイでに足も机の上に放り出してオレはこれからのコトを整理するコトに決めた。マズはメイリーとか言うヤツを探さなキャいけねェ。まァコレに関してはナンとかなるだろう。本部が指定してきたッつーコトは、天幕の構成員かもしくはナンらかの関係者だろう。少なくともオレが一方的にソイツを探してて向こうに合流の指示すら行ってねェッてコトはねェハズだ。向こうがオレを探すのは結構カンタンなハズだ。オレは学園に一応表向きは非常勤として雇われてるワケで、少し調べればイツもココにいるッつーコトが分かる。オレは学園のデータベースからそのメイリーってヤツを特定して現在位置を特定すリャイイだけのコトだ。緋影ッつーヤツもまァどうにかなるだろう。
「後は……ヤッパコイツか。」
足の横に無造作に投げ出された丸秘書類を適当に足でいじくりながら、オレは宛先すら分からねェこの危険物の処分を考える。適当に魔術科のオトコに開けさせるッつー案も無くはねェが──オンナノコにヤラセるのは酷だしもったいねェからな──ウッカリ普通に開封されてもコマる。一応ヒミツの文書だ。
その時だった。いきなり放送が響いてきた。
「後期学園生活を迎えるにあたり、訓練用の棒を用意致しました。後期の学園には様々な敵が徘徊することになります。戦闘の練習にご利用ください。」
「は?」
オレは目を丸くした。訓練用の棒ナンつーモノは聞いたことがねェ。だが、確かに“ソレ”はオレの目の前でニョキニョキと伸びた。
「はいこんにちはッ!私はマイケルと申しまーす!校長の御指示でアナタの戦闘練習のお手伝いをさせていただきますよォッ!!前期で鈍った勘を取り戻してくださいネェーッ!!」
「……ッてオマエ、どっかで会ったコトねェか?
しかもビミョーにオレとキャラカブッてるだろ?」
だケド、オレの様々な疑問は一切シカトしてソイツは構えを取ると殴りかかってきた。オレは机の片隅に投げ出してあった講義用のナマクラを咄嗟に探し出すと、ナンとかソレを手にバク転で一撃目を躱す。
「だァァァァッ、イキナリコレかッ!」
後期は中々に忙しくなりそうだ。オレはクチの端で苦笑を浮かべてナマクラの鞘を払うとマイケルに向き直った。
二日目
夢を見ていた。長い夢を。
白い髪、無表情な冷たい目をした女が、暗い部屋で長剣を突きつけて言った。
「『象牙』。お前の今の行為を背信と見做し、『金色』の安全の為に排除する。」 温和な笑みを浮かべた黒いローブの男。どこかの森の中。少しだけ寂しげに、諦めの表情を滲ませて。
「本当に……君は僕達全てを敵に回してしまうつもりなのかい。ならば君は、大切なものを持つべきじゃない。失うようなものを。」 金色の髪をした天使のような笑みを浮かべた少年。背中には白と黒、二対の羽を背負っている。為すべきことのために力を求めたオレに向かって。
「じゃあ、僕にタマシイを頂戴よ。」 透き通る空の色をした瞳。森の中で過ごした偽りの平和。
「さようなら、人の子。貴方といた半年ほどの間、本当に楽しかったわ。皮肉ではなくて、本当に。」 強く揺るぎない幼い勇者。退くことをせず、常に向かっていった仲間だった。
「良くわかんないけど、あんちゃんとは『むかしのなかまのしりあいのまご』ってゆうのみたいです。」 穏やかで苛烈なその意志。自らの道を迷うことなく進む英雄が。
「人は……変われるものじゃのぉ。
涼風、いや、アイヴォリーよ、あのお嬢さんを大切にするのじゃぞ。」 黒い髪の少年。いつでもオレと一撃の鋭さを、神速の切れを競っていた。
「出来ることを、少しずつ積み重ねていく……それで良いんですよね?」 ネコのようなその仕草。そうだ、アイツは元々ネコだったっけ。オレがヘコんでた時に助けてくれた。
「まぁいいじゃない。楽しくやろうよ?」 青い髪の竜族。彼女の打ったダガーは最高のキレを持っていた。絶妙のバランスと切れ味。何度もオレの命を助けてくれた。
「相変わらず手慰みだけどね。結構な素材だったからさ。
そいつはディンに感謝してやってくれよ。あたしは材料預かっただけだしさ。」 撫で付けた髪、スーツと色眼鏡。イツか共に肩を並べて戦い、イツか敵同士になって。
「さて……貴方のボスに対する裏切りの数々、目に余ります。
私の愛でもって悔い改めなさい、象牙!」 アイツは消えちまった。戦場で鍛えたトラップ、鋼鉄の意志。もう会うコトはねェのか?
「ふん、恐らく貴様のような不躾な男には、金輪際会うこともなかろうよ。」 霊体の気のイイヤツだった。イツでもオレと仕合いたがってたよな。
「オニーちゃん、霊体相手の攻撃にこの程度の魔力はナイんじゃないの?」 昔見た顔。どこかでオレが殺したはずの。でもまァ、今から思えばピッタリだったのかもな。
「あたしはいつでもあんたの傍にいるじゃないか。ねぇ?」 暗い目をした、紅い魔術師の走狗。でもアイツがいなかったらオレたちは最後の勝負には勝てなかった。
「あの人は、いつも僕を支えてくれる。それだけさ。」 何のためにあんなトコまで来たんだ。アイツはずっとアンタのコトを探してたんだぜ。何であんなコトになっちまったんだ?
「悪いが……まだ俺にはやらねばならんことがある……仲間のために、な。」 口の悪い紅茶の王子サマ。楽しかったな。今頃どうしてるんだ?
「形あるものな……いつか滅ぶんだよ。
それに今のとこ、俺には色々面倒見なきゃいけない奴らがいるから、な。」 出会った大切な仲間。オレに全部押し付けやがって、アレだけ無理はすんなって言ったじゃねェか。オレには荷が重過ぎるぜ……。
「ウィンド殿、リアーン嬢。それでは、ご武運を。」 …………。
白い煌き。出会ってからあっという間に過ぎた大切な時間。大切な思い出。交わした約束。
「アイって呼んじゃダメかなっ!」
+ + + 裏切り者。裏切り者。裏切り者!!
+ + + ……メイ……?
+ + + 「起きるんだ、僕の欠片。新しい節の始まりだ。さぁ、もう一度超えて見せてくれ。僕のために。」 + + + さァ、次はナニが見てェよ?
+ + + ──ウィンド殿、後は頼みます──「うゥ……」
オレは頭を押さえて呻きながら起き上がった。どうも昨日の夜の寝酒が過ぎたらしい。オレは舌打ちして横に置いたカップから水を呷る。
「クソッタレ……。」
長い夢を見ていた気がする。とても長い夢を。それはとても長く、まるで一生を過ごしてしまったかのような。だが、それでもその夢の内容はいまいち思い出せなかった。ただ、とても大事な何かを失くしてしまったかのような、そんな喪失感だけが残っていた。
昨日はマイケルを何とか倒してから指示されていた連中と合流した。どうにも変わった連中ばっかりだケド、まァマトモなヤツもいるみたいだし大丈夫だろう。
──ウィンド殿、後は頼みます── ふと、夢の中で誰かが言った言葉を思い出した。それと同時に、物思いに耽っていたせいで荷物の上に投げ出してあった書類が落ちる。オレは昨日渡されたその正体不明の封筒を眺めて少しの間考えた。
──ウィンド殿、後は頼みます── 眼鏡の奥で光る冷静な光と、穏やかな微笑み。オレに全ての技術を遺して……。
「ッ……。」
こめかみをきりりと締め付けられるような痛み。オレはもう一度舌打ちすると頭をかき回した。何だって言うんだ、コイツは。オレは唇を噛み締めて痛みが去るのを待つ。
「アイ……じゃなくてアイヴォリー先生、どうしたの?」
オレの後ろから心配そうに覗き込んでくるちっこいのが一人。このお子サマが件のメイリーってヤツらしい。背中には一対の透明な羽翅。まるで伝説の妖精のような、まァ顔も後五年もすればビジンになりそうな。
ただ、それはあくまで五年後の話であって、初等部の遠足じゃあるまいしこんなお子サマとオレをペアにするってのは天幕も気が利かないコトこの上ない。しかもこのお子サマ、オレの準備室でのフェイバリットなしっぽりタイムを邪魔するんだから困ったモンだ。昨日もビジンと準備室にバックレようとしたら、いきなりやってきておめめウルウルときた。しかも泣きそうになりながら手はマジックミサイルの印組んでるんだからどうしようもない。女の子は興削がれて逃げちまうしイイコトなしだ。
まァイヤガラセでヤッてるワケでもねェみてェだし、仕方ねェトコナンだケドな。
「あァ、ちっとユメ見が悪くてよ……ソレとも飲みスギちまったかねェ?」
「も~、今日から大変なんだから、しっかりしてよね?」
口ではそう言いながらも、メイリーがくすくす笑いながら水差しからコップにもう一杯水を注いでくれる。その様子を見ながらオレはこっそり溜め息を吐いた。
「ま、仕方がねェか……。」
口の端に笑みを浮かべてメイリーを見上げると、彼女は微笑んだままで首を傾げた。本部の命令だしな、それに魔術を齧ってるっても、こんなお子サマを放り出しておくのも気が引ける。オレにしても昨日のマイケルに手を焼かされたのだ。それに今日からは練習用のデクじゃなくもっと危ない敵に会うだろう。オレ自身いつまで余裕をカマしていられるか分からない。オレは弾みをつけて立ち上がると首を鳴らしてメイリーを振り返った。
「今日からはキビしいからな、ちゃんとセンセについて来いよ?」
「大丈夫よ、ボクはもう見失ったりしないから♪」
弾けるような微笑みを浮かべて立ち上がると彼女はオレの左を歩き出す。その、オレの左側の視界を塞ぐ彼女にオレは妙な安心感を覚えて少しだけ戸惑った。シーフには──そして暗殺者にも──視界は重要なファクターだ。それを制限されて安心するなんてどうかしている。
「ここはまだきっとボクの居場所だから……。」
メイリーの独り言が、何となくオレの耳に届いていた。
三日目
ばさり。天幕の垂れ布を捲ってアイヴォリーが姿を見せる。手には分厚い封筒。鮮血色の目をすっと細め、アイヴォリーは滑るように、仲間の天幕を縫って走り出した。敵地の中にいる斥候のように警戒心に満ちた動きで、僅かな動きも見逃すまいと辺りに視線を配りながらの疾走だった。
「ココ、か。」
カーキ色に染められた実用一点張りの小さな天幕。静かにその中に忍び込むと、アイヴォリーは中の人間を驚かさないようにそっと声をかけて揺さぶった。
「んん……隊長……あ、あなたは……。」
中にいた野戦服の少女は目を擦ると、目の前の男を見て僅かに怯えの色を見せた。それも当然だ。女の噂には事欠かない手癖の悪い非常勤講師が目の前にいたのだから。彼女は傍らに置いたガラス瓶を咄嗟に手にすると、いつでも中身をぶちまけられるように身構える。
「何かしたら大声を出しますよ?」
だがアイヴォリーは、その赤い瞳で彼女を見据えながら人差し指を立て、それを自分の口の前に持っていく。その手を広げて掌を彼女に向け、それから指を二本揃えて天幕の入り口を指差した。それは軍隊で使われる手話で"静かに、待て、敵がいる"を意味する。軍人以外が滅多に知ることのないはずの動作を彼が行ったことに彼女は驚き、僅かに安堵した。それを見たアイヴォリーは、抑えた声で口早に、重要なことだけを口走った。
「アンタの大切な人からだ……オレは長くはいられない……確かに、渡し……ぞ。」
唇を噛みながら僅かに苦悶の表情を浮かべ、手にした茶封筒をフェリシアに押し付けると、アイヴォリーは彼女の天幕から飛び出した。早く戻らなければならない。いつ"今の"アイヴォリーが帰ってくるか分からないのだから。
+ + + 「あ~……。」
オレは目を覚ますと、転がったままでとりあえず呻いていた。昨日の戦闘は思った以上にハードだった。歩行雑草は思っていた以上に強く、実質二匹の攻撃を全て受けることになって堪えきれずに倒れたのだ。
「先生、怪我はどう?」
メイリーがオレの顔を覗き込んできた。自分が戦闘慣れしていないせいでオレが倒れたと思って責任を感じているらしい。確かにそれも理由の一つではあるが、それ以前にオレの腕が落ちていたのが原因だ。
「ちょっと見せて?」
聞いているように聞こえるが実際には有無を言わさず勝手にオレの傷を検めている。しかし勝手に服の裾を捲り上げたところで彼女の動きが止まった。
「オイオイッ、ドコめくッてんだよッ!」
流石に驚いたオレが声を荒げると、彼女も同時に声を荒げる。
「アイっ、こんな怪我で戦える訳ないじゃないっ!!」
彼女が見つけた腹の傷は、昨日最後の一撃としてオレが貰ったヤツだ。確かにマジックミサイルの熱で焼かれ、肉が抉れて爛れている。一番大きな傷だった。
「あ~、でもヤラねェワケにはいかねェしなァ。」
そう言って肩を竦めたオレに指を突きつけ、メイリーは仰天するような提案を口にした。
「今日は先生は後ろ!ボクが前ね!」
「はァ?
オンナコドモ前に出して後ろでのうのうとしてられッかよ!」
バカにしてんのか、と声を荒げるオレ。だが、その有り得ない提案を速攻で却下したオレの顔を睨み付ける様な調子で見据え、怒ったように彼女は高らかに宣言した。
「いいから、もう決定!!」
そのまま彼女はぷいと天幕を出て行ってしまう。追いかけようとしてオレは立ち上がった。だが、その拍子に挙げた腕に痛みが走る。
「オイ、待てよ!」
+ + + オレは溜め息をつき、辺りを見回した。今日は早々に移動だとリーダーから聞いている。オレは荷物をまとめるとメイリーを探し始めた。
「ヤレヤレ……あのお子サマ、一体ドコイキやがったんだよ……。」
諦めたように溜め息を吐くと、オレは辺りを歩き始める。あの緋影とかいうオッサン曰く、"同行者の所在くらいは己で掴んでおけ。"ッつーコトらしい。しかも今日は昨日と違って少し先を急ぐってことで、オレは集合時間になっても姿を見せないメイリーを探して辺りを散策していた。
「あァ、いヤがったな……。」
何の建物なのか、校舎の一つらしい小さな建物の陰でしゃがみ込んで数人が集まっている。オレは目ざとくその中に金色の髪と薄い羽翅を持つヤツを見つけてそっちへずかずかと近づいていった。メイリーもこっちに気付き、一瞬オレに目を向けたが、さっきの続きなのかすぐに彼女はつんをそっぽを向いてオレを無視した。
「うん、これなんかどうかなー?」
どうかなァもナニもオレニャ唯の石にしか見えないんだが、えらく楽しそうにメイリーは石を拾っては弄繰り回して周りの連中と何かを確かめ合っている。あのお子サマに言わせると立派な部活動らしいんだが、やはりオレから見ると石拾いにしか見えなかった。
「ヤレヤレ……仕方ねェな。
オイメイリー、ソロソロ行くぞ。集合時間だぜ。」
「え~、ここはすごく良い石があるのよ~。もう少し、ね?」
ちらり、とオレの顔を様子を窺うように見上げてから、何を思ったのか居座ろうとするメイリー。もう少しも何もない。あまり時間をかけすぎて置いていかれたら面倒だ。オレはなおもこの一帯の石の素晴らしさを力説する彼女を無造作に掴むと抱え上げた。
「……分かったよ。言うとおりにすッから。ソレでイイだろ?」
「うわっ、先生、何するのよっ!」
部員ズはあまりの出来事に唖然としているが別にオレは気にしない。じたばたと暴れて抗議するメイリーを無視して、オレは集まっていた他の部員らしきヤツらに指を振って見せた。
「まァそんなワケで今日の石拾いはオヒラキだ。悪ィなお嬢さん方。マタ今度遊んでヤッてくれや。」
「だから石拾いじゃないってば~!」
相変わらず上から抗議の声がするが続けて聞こえない振りをする。とりあえず集合するのが優先だ。
「ヨシ、回収。まァ命令だしな。さっさと帰るぜ?」
じたばたと暴れるメイリーの腰を肩に抱え上げ、オレは道を帰り始める。急がないと遅刻だ。
「ちょっ、きゃー、高いって~!
下ろして、下~ろ~し~て~よ~!」
「フェアリーがこの程度で高ェもヘッタクレもあるかよ。耳がイテェからもう少し静かにしてくれ。」
オレは歓声だか悲鳴だか良く分からない叫びを上げるメイリーを抱えたまま、集合場所へと戻っていった。
+ + + メイリーも騒ぎ疲れたのか、二人が少し歩くと辺りには静けさが満ちた。ただ鳥の声だけが辺りに響く、小さな森の中。もうパーティで決められた合流場所までさほどの距離もない。
「ね~、先生そろそろ下ろしてよ?」
だが、そのメイリーの問いかけにもアイヴォリーは何も答えずに、前を向いたままで一歩一歩歩みを進めていく。
「アイヴォリー先生?」
「まァ……イイじゃねェか。」
ようやくアイヴォリーが口を開いた。その口元には、人を食ったような性質の悪い、だがどことなく憎めないような笑みが浮かんでいる。前を向いたまま、アイヴォリーはそっと付け足した。
「イイじゃねェか。よく、こうヤッて歩いたろ?」
アイヴォリーの口から呟くようにして漏れた言葉。それを聞いたメイリーがはっと身を硬くする。
「心配すんな。"オレ"はどんな時でも、メイのソバにいるからよ。な?」
ただ、鳥の声だけが包むように。いつか、どこかと同じようにして。
「ねぇアイ、もう少しだけ……こうしてていいかな……?」
「あァ、ユックリ行こうぜ?」
小柄な少女を肩に担いだままで。白い風の名を持つ盗賊はゆっくりと集合場所へと歩いていった。
四日目
「盗賊科の非常勤講師アイヴォリー=ウィンド先生とお見受けします。」
明らかに不審者を見る目つきでソイツがオレに聞いた。不審者というか、微妙に軽蔑の眼差しが混じっているような気がしなくもない。確かに噂には事欠かないオレはそういう目で見られることも少なくない。だが、そういう相手にこそ丁寧に、がオレの主義だ。オレは後ろのお子サマを気にしつつ、ナンパ用の柔らかな微笑みを浮かべて彼女に聞き返した。
「あァ、そうだケドよ。」
だが、その嬢ちゃんは几帳面に、愛想の欠片もない生真面目な様子でオレに答える。
「私の名前はフェリシアンカ=フルール=マントイフェルと申します。
この学園では看護科に在籍しています。ですが正式には帝国国防軍第7213装甲戦闘工兵小隊、衛生班長を務めております。
我が隊の小隊長、ハインツ=クロード=ハルゼイ中尉のことをご存知つ聞き伺った次第であります。」
……ハルゼイ?
何かがオレの頭の中を過った。何か大切な物を落としてきてしまったような、そんな感覚。オレは思わず頭を抱え込んだ。今までになかったような頭痛が襲ってきて足元がふらつく。倒れ込むと同時に視界が狭まっていきオレは意識を失った。
+ + + 苦労しているようだね。その程度では困るのだけれどな。
君が会いたがっていた人に会わせてあげよう。ずっと探していた人に。「ハルゼイのコトかッ?!」
アイヴォリーの目の前に、一対の赤い瞳が光っている。射抜くように、貫くように。叫んだアイヴォリーを哀れむような輝きで、赤い瞳が言葉を紡いだ。
ああ。あれは渡してもらわなければ困るんだ。天幕のこれからにも支障が出る。だから、少しだけ思い出してもらうよ。 紅い瞳が一層輝いてアイヴォリーの目を射る。アイヴォリーの視界が一瞬真紅に染められ、それが去った時には彼の前に人影があった。
『それと……もし……アレがあなたの重荷になってしまうのであれば……
私の事を忘れてもそれは仕方のないことだと思うつもりです。』
アイヴォリーの目前で、白衣を着て眼鏡をかけた青年が微笑んでいた。アイヴォリーはいつもの笑みでハルゼイに人差し指を立てる。気障な調子でそれを目の前で振ってみせたアイヴォリーはハルゼイにそれを向けた。
「オイオイ、重荷だッて?
あんなモンいくらでも渡してやるさね。いくらでも、な。
でも、ソレよりもオレが許せねェのは、テメェがアレだけ言ってたのにムリした上にトンズラしちまったコトよ。」
「トンズラ……ですか。いやはや、ウィンド殿らしい……。」
ハルゼイは笑みを深くしてアイヴォリーに近づくと、アイヴォリーがやっていたように肩を竦めてにやり、と笑った。
「私の力では、今回彼を如何こうすることは出来ませんでした。」
そのハルゼイの言葉を聞くと、アイヴォリーは腕組みをして口の端を持ち上げる。ハルゼイの考えていることを見透かしたかのように、悪戯っぽく笑ったアイヴォリーが口を開いた。
「マダ……アキラメてはねェんだろ?」
「……ですが、私は今は動けません。ですから……彼女を頼みます。」
ハルゼイの言葉に、アイヴォリーが大きく頷いた。目を細めて真剣な面持ちで、しっかりと。
「後は、どうか……リアーン嬢とお幸せに……。
彼女を泣かせるようなことはあまり感心しませんね?」
ハルゼイはそういうと掻き消える。だがアイヴォリーはそれに気付いた様子もない。どこからか、か細いすすり泣きが聞こえてきたのだ。それはアイヴォリーの良く知った、とても大切な人の、悲しみの声。
……メイ……どうしてそんなに泣いてるんだ?
アイヴォリーは一番大切な者のしゃくりあげる声を聞きながら呟いた。昔からそうだが、この小さな妖精のたまに見せる笑顔以外の表情は、それが滅多に見せないものだけにアイヴォリーの心を深く抉る。そんな時、決まってアイヴォリーはどうして良いか分からずに、まともに彼女の顔さえ見ることが出来なくなる。
オレは、イツでもメイのソバにいるさね。この……新しいカラダはマダ自由ニャならねェケド、ソレでもマチガイなく同じオレのカラダだ。
ソレに、こうして目も元に戻った。きっと、今度は今までよりももっとウマくヤレるさね。
だから……泣かないでくれよ。
僕は、君に新しい身体を与えた訳じゃない。“象牙色の微風”という裏切り者を新しく一つ選んだ時に、少しエッセンスを加えただけだ。誤解されては困るね。
君の存在が実験に邪魔になるようならば……消えて貰う。早過ぎる覚醒は天幕に対しての申し開きが出来ないからね。もう少し、眠っていたまえ。古い“裏切り者”の断片よ。 アイヴォリーの前に浮かんだ一対の紅の瞳。嘲笑するように細められたそれが輝いてアイヴォリーを眠りへと落とし込む。
……アイが、苦しんでる姿を見るのは辛いよ……?
どこからかメイの声がアイヴォリーに届いた。それと同時に真紅の瞳が驚いたように見開かれる。アイヴォリーの額に、微かに暖かい、優しい体温がどこかから伝わり。
そんな、彼女に、此処に介入してくる力はない筈だ……!「良い夢が……見られますように。」
メイの声が届き、アイヴォリーは目眩を感じた。どこかへと引っ張られる感覚。覚醒しているのだ、アイヴォリーは目を閉じて元の世界へと引かれてゆく。意識の欠片として肉体に封印されたあの場所へと。
+ + + 「えっ?!」
急にお子サマの声がして、オレは目を開いた。気付けばオレは寝台──準備室でオレが仮眠やらホカのコトやらに使っているヤツだ──に寝かされていて、すぐ至近距離にメイリーが浮いている。吐息すら感じられそうな至近距離。しかもなぜかオレのデコとお子サマのデコはくっついていた。
そして、浮いていたお子サマが、落ちてきた。
「ぐえッ?!」
無論お子サマはソレホド重い訳じゃない。どちらかというと柔らかく、羽が舞い落ちるようにふわり、とした感覚がオレを包んだ。だが、昏倒から覚醒したばかりのオレには厳しい条件だった。オレはなぜか胸の辺りで組み合わされたお子サマの両拳を鳩尾にキレイに入れられ、声を上げて呻いた。
「あ、あなたたち、ななな何してるんですっ?!」
すごい叫び声がして、落ちてきたメイリーと一緒に思わず声のした扉の方を見る。そこにはフェリシアが目を丸くして、オレたちを指差していた。心なし震えているように見えるのは怒りのせいか。
「お、お、お……お邪魔しましたっ!」
「ナンか知れねェケド、絶対ソレ誤解だッ!」
明らかな誤解だ。それを解くために寝台から降りようとしてもがいたオレは、メイリーと一緒に寝台から転げ落ちた。扉が閉まりフェリシアが部屋を出て行く音がする。
「せ、センセ、苦しい……」
慌てて扉から自分の下に目をやると、メイリーがオレの下敷きになってもがいている。オレが身体で踏んづけたケープが袋状になって、その中でお子サマがばたばたしていた。
「あ、あァ悪ィ。気付かなかった。……よっと。」
ケープからメイリーを引き起こしてやる。落ちた時にすりむいたのか、彼女の腕から僅かに血が滲んでいた。
「ッと、血ィ出てるじゃねェか。イタかったな。」
「うん、これくらい大丈夫。」
メイリーの腕の具合を見ようとすると、もう一度扉が開いてフェリシアがまた顔を出した。ちょうどイイ、手当てしてやってくれと言おうとしてオレは口を開く。
「あなたたち、不潔ですっ!!」
何をどう勘違いされたのか、彼女は顔を真っ赤にしてそれだけを言うと扉を叩きつけるようにして閉めた。
四日目:オマケ
アイがハルゼイさんの名前を聞いて急に倒れた。フェリシアさんはアイの様子をざっと見ると一時的なものだと診断した。良かった。昨日の戦いではアイはぼろぼろになるまで戦っていたし、あのお腹の傷は酷かったから、そのせいで倒れたんじゃないかって思ったら、気が気じゃなかったら。
「では私は薬を取りに戻りに少し席を外しますけれど……もし容態が急変したり、逆に目を覚まされたら呼んでください。」
フェリシアさんはそういうと準備室を出て行った。アイは時たまうなされているけど大丈夫そうだ。フェリシアさんがいてくれて本当に良かった。
「く……ハル……ゼイの、コトかッ……?!」
アイが歯を食いしばって漏らすように呟いた。苦しそうに眉を寄せてハルゼイさんの名前を呼んでる。苦しそうだけど、容態が急変ってほどでもないし……。
困ったボクは悩んだ挙句にお婆ちゃんから教わった方法を試してみることにした。フェアリーは人間たちよりももっと意識に近い存在だから、“悪い夢を追い払うおまじない”ができるって……。
そっと力を使って宙に浮いて、寝台に寝かされたアイの上へ行って、両手を胸の辺りで軽く組んで。ボクは自分の額をそっとアイの額に近づけると意識を集中する。唇を噛み締めたアイが漏らす吐息が鼻を擽るくらいに近い。少しだけ緊張しながらアイに顔を近づけた。
こつん。
「良い夢が……見られますように。」
額と額を合わせてする、悪夢払いのおまじない。少しでも良い夢になるようにと夢の精霊様にお願いしながら。
そのとき、小さな音と共に準備室のドアが開いた。
「えっ?!」
びっくりして集中が途切れ、思わずアイの上に落っこちる。
「ぐえッ?!」
「あ、あなたたち、ななな何してるんですっ?!」
上からボクが乗っかって変な声と一緒に目を覚ましたアイ。扉から目を丸くして覗き込んでいるフェリシアさん。
「ナンか知れねェケド、絶対ソレ誤解だッ!」
ボクを乗っけたままでアイがわたわたして、ボクたちは二人とも寝台から転げ落ちた。
五日目
実際、その時の僕は動揺していたと言っても良いだろう。あれは断じて唯の夢などではない。“夢見るままに待ちいたるもの”の力を変容させた、れっきとした力場なのだ。書斎から行使した僕の魔術に狂いが生じるということはほぼ皆無に近い。ここは僕の存在理由を定義する場なのだから。
だが、そうだとすると疑問が残る。未開拓の部族に過ぎない彼女の一族の、しかも呪い程度の如きものがどうやって力場の調和を破って侵入を為しえたのだろうか。彼女の魔力がそこまで強大でないことは分かっている。確かに彼女の魔力は低くはないが、あくまでそれは通常レベルのものであって、人間と比べて、という程度のものでしかない。フェアリーの中では普遍的なレベルということだ。
僕の魔術が揺らいだ訳でもなく、彼女が魔力で力場を破ったのでもないとすると、残された原因は何だろうか。現状ではどの説も推測の域を出ず、どれも採用するには弱い。もう少し観察する必要があるだろう。
まぁ良い。実際に何が起こっているのかは此処からもう少し、見守らせてもらうことにしようか。
+ + + 「お子サマじゃなくって、メ、イ、リ、イッ!! ちゃんと名前で呼んでよねっ!」
誰かの真似のつもりなのか、お子サマは人差し指を立てるとそれをオレに向けて高らかに宣言した。まぁそれ自体は別に構わないんだけどもな。このお子サマの名前がメイリーであるのは間違いのない事実だしな。
とは言え、それで簡単にはいはいと引き下がれるオレでもねェ。第一このお子サマのお守りを天幕から命じられて以来、しっぽりタイムは禁止されるわ戦闘じゃお子サマを盾にして後ろで戦わされるわと、やりたい放題……イヤイヤ、やられたい放題だ。ここらでひとつ、ガツッと言っておく必要があるだろう。
「あーあー、お子サマはメイリーッつーんだったな。オーケィオーケィ、お子サマメイリー、ホレ、早く行くぜ?」
オレはわざとらしく肩を竦めて天を仰ぎ、頬を指でぽりぽりやりながら「お子サマ」を二回とも強調して言ってやった。……イヤイヤ、子供のケンカと言うなかれ。お子サマに対しては、こっちが相手の意思に従うつもりがないと、はっきりと示してやる必要があるのだ。ホレ、その証拠にしおらしい表情で俯いたお子サマは素直にオレの後ろに回って従って……。
「あ~、またオコサマって言った~っ!!!」「いでででででッ!!」
後ろに回ったお子サマが、オレの耳元で大音響でがなりたてた。しかもあろうことかオレの頬を思いっきりつねっている。どうにしかして身体を捻り後ろに視線をやると、届かないからかご丁寧に浮かび上がっている。これは明らかに反逆……イヤ、そもそも反体制だ。
「いふぁい、おふぉふぁま、ふぁめふォォォ!」
まぁ自分で言うのもなんだが、明らかに人語になっていない。頬を思いっきり、力いっぱいつねられているのだから当然だ。だが、以外にもお子サマはオレの人外語を理解したのか耳元で叫び返した。
「止めません。ハイ、ボクの名前は?!」
悪いがそんな拷問に簡単に屈するようでは元暗殺者の名が廃る。こんなことで断じて……ッ!
「ふぉんはひゃひふぁたふぁりふぁよッ?!」
「聞こえないな~もう。
ハイ、ボクの名前は?!」
さらに頬を捻り上げられて、オレは已む無く暗殺者の教えを破ることにした。まぁもっと簡単に、拷問に屈したと言っても良い。
「ふぁい……ふぇいりぃふぇす……。」
「ハイ、良く出来ました♪」
オレの言葉は相変わらず人外の域を脱していないのだが、これも要領よく理解したのかお子サマ……メイリーは嬉しそうに音符まで付けるとようやくオレの頬を離した。オレは色の変わった頬を擦りながらメイリーを振り返る。コイツ……思いっきりやりやがったな……。
やられっぱなしでは気分が悪いので、オレはちょっとばかり反撃してやることにした。わざと不機嫌な表情で腕を組むと、大げさな溜め息ととも呆れたように言葉を吐き出す。
「ヤレヤレ……仕方ねェな。オレたちはこんなコトしてるヒマはねェハズだぜ。」
そう、実際オレたちは負けたのだ。あの程度の相手に。
三回戦えば二回は勝てる相手だった。だが勝負は時の運とは言え、実際の結果として負けてしまったのでは仕方がない。
「うん……そうだよね、ゴメンね先生……。」
オレの言葉を聞いて、それまで元気いっぱいだったメイリーが急に大人しくなった。オレの背後で静かに地面に降り立ち、小さく呟くようにそう言って。ヤレヤレ、どうやらこのお子サマ、空元気でやってたらしい。そこに気付かずにオレが痛いところをブスリとやっちまったって訳だ。ナンパ男も形無し、ってヤツですか。
「ボク……もっと頑張るからっ……もっとしっかりするからっ……!」
背中に柔らかいものがふわり、と押し当てられて。メイリーの声が骨を伝わって響いてくる。小さな啜り泣きと共に。オレの背中を掴む小さな両手に込められた力が、彼女が昨日の敗北で受けたショックを物語っているような気がして、オレは途方に暮れ空を仰ぐと頬を掻いた。
「……気にすんな。今日負けても、明日勝チャイイ。明後日も勝てばソレでオレたちの勝ちさ。ダロ?」
まだ泣き止まないメイリーに向き直り、オレは前屈みで目の高さをメイリーに合わせてやる。俯いてぐずぐずやっている彼女の顔を覗き込むと、オレは人差し指で頬を拭ってやった。
「なァ、イイかお嬢さん。良く聞きな。
オレたちはな、きっとサイコーのコンビになれる。サイコーのな。
だから今負けても気にするコトはねェ。ゼッテェに、サイコーのコンビになる。だから、な?
今は気にすんな。」
頭に手を置いて、メイリーの髪をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。何となく、そうやれば彼女が落ち着いてくれるような気がして。
そう、コイツはオレが自分でもナニ言ってるか分からないような状態で言った言葉でもちゃんと理解した。きっと慣れていけば阿吽の呼吸で動けるようになるはずだ。たとえ今は少しちぐはぐでも、こうやって時間を過ごしていく内に。心の中のどこかで、確信に近いものがあった。
「……うん。」
「ホレ、もう泣くのは止めな。集合に遅れちまう。」
そう言って二、三歩歩いてから、メイリーを振り返る。涙を拭いている彼女は、それでもまだ同じ場所に立ち尽くしていた。まるで、親を見失った幼子のように。オレは苦笑を浮かべ、ヤレヤレと小さく口の中で呟くと、彼女に手を差し出した。
「ホンットーにお子サマだな、お嬢さんは。
……行くぜ、“メイリー”?」
それは、オレにとってはちょっとした決心でもあった。オレは誰の名前も呼ばない。アンタとか、お嬢さんとか、全員に対してそうなのだ。名前を呼べば情が移ってしまう。それは暗殺者にとって致命的な状況をしばしばもたらすのだ。だから、ちょっとした決心とともに、オレは彼女の名前を呼んだ。口の端を歪めて片頬で、人を食ったような悪戯めいた笑みを浮かべて。
おずおずと、差し出されたオレの手をメイリーが取る。子供のようにオレの中指だけを握り、迷子になったお子サマのような彼女は、それでも少しだけ顔を持ち上げてオレに向かって笑った。
「うん、ボク頑張る。せっかく……見つけたんだから……っ!」
小さく、決心するように呟くメイリー。オレは頷くと彼女の手を引いて歩き出す。
「ヨシッ、行こうぜ。ちょっと走るからな、ゼッテェに手ェ、離すなよッ?!」
ずっと、ずっと繰り返してきたことさ。
どこかで、誰かのそんな声が聞こえた気がした。
六日目
オレはゆっくり身を起こすと身体の傷を確認した。大丈夫、何とかベストの状態で戦えそうだ。メイリーの言う通り、今のところ耐久性に関しては──特に魔法耐性に関しては──彼女の方が高い。主に回避を被害軽減の手段として用いるオレたちシーフは、体術によって躱せない魔法にはからっきし弱いのだ。魔法も相手の詠唱と視線からある程度着弾点を予想することは出来るが、効果が発現するまでにその着弾点から離れられるかと言われればそれはまた別の問題だ。
「ねぇねぇ、アイってばどんな髪型してる子が好きー?」
机に腰掛けたメイリーが足をぷらぷらさせながら、のんきに自分の髪をいじりながら言う。本当にのんきなお嬢さんだ。オレがコイツを壁にして戦ってることを気にして延々悩んでいるというのに、その当人は髪型が決まらなくて悩んでいるらしい。オレは溜め息を吐くと、呆れている様子を態度でアピールしてやろうとして彼女の方を向いた。
…………。
…………。
…………。
……あ、案外カワイイじゃねェか。
普段の三つ編みのお下げを梳いて、オレのことなどお構い無しでメイリーはどんな髪型にしようかを悩んでいるらしい。その内オレの視線に気付いた彼女は、オレが自分の方を向いて硬直しているのを見て軽く小首を傾げて見せた。
「な、な、ナンでもねェよ。」
慌ててぷい、と視線を逸らす。幸い──本当に幸いだったのかどうかはともかく──まともな答えを返さなかったオレを、メイリーは微かに非難の混じった視線で上目遣いに睨んだ。
「そうじゃなくてー、ボクは先生がどんな髪型が好きかって聞いたんでしょ?」
まぁ答えになってないのだから怒るのも当然なのだが。オレは意味もなくそわそわしながら、視線を逸らしたままで鼻を鳴らした。
「へッ、別にどんな髪型でもオレニャ関係ねェよ。
ソレよか、そのアイってのはナンだ、アイってのは。」
このお嬢さんは、ふとした拍子にオレのことをそう呼ぶことがある。戦闘でピンチになった時や物思いに耽っている時……怒った時。意図的にやっている、というよりは思わずそう呼んでしまう、といった感じでだ。オレは横目でメイリーを見ながらそのことを指摘して話題を逸らした。昔から人を煙に撒いて話題を逸らすのはオレの得意技だ。
「っ……それは、それは別に、何でもないよ。
ただっ……慌てた時とか、短い方が呼びやすいから……。」
動揺と寂しさ。その時の彼女はその二つが微妙に入り混じった表情を浮かべた。このお嬢さんは、本当に思ってることがすぐに顔に出る。分かりやすいことこの上ないのだが、この時の彼女の表情に関しては、オレには意味がつかめなかった。
「動物じゃあるまいし、センセの名前を短くして呼ぶヤツがあるかよ。」
イヴ──ルミィがそう呼ぶので長いその名前はあっという間に省略された──の腹を撫でながら、自分も大きな欠伸をひとつ。「動物じゃ……あるまいし……。」
何かを急に思い出しそうな気がして、オレは思わず言葉を切った。不審気な様子で──と思ったんだが、メイリーはなぜか張り詰めた、何かを期待するかのような表情でオレの顔を食い入るように見つめている。
「アイって呼んじゃダメかなっ!」「えっとね、アイさんがいつもボク呼んでるみたいに……」 いつもと違うその調子。もごもごと口の中で。口にすべきかを迷って、迷った時に良くやるように指を弄くりながら。
「あァ、イイぜ。その、何だ、メイの好きなように呼んでくれリャイイ。」 どこかで交わしたような、そんな言葉。誰と。何時。いつの間にか刺すような、鋭い痛みに頭が締め付けられてオレは頭を押さえた。
「アイっ……大丈夫っ?!」
「あ……あァ、大丈夫だ。大したコトはねェ。」
メイリーを手で制し、オレはふらつく自分の足に必死で目の焦点を合わせ、何とか踏み止まった。だが、それと同時に、頭を掠めたはずの何かの欠片は日に当たった霜のようにあっさりと、つかみ所なく消えていってしまう。
「ッ……!」
オレは音にならない舌打ちをして、歯痒さにいらついて唇を噛んだ。不安げな表情を浮かべ、オレに制されたにもかかわらずメイリーが走り寄って来る。オレを脇から支えるように彼女は手をオレの脇に差し込んだ。半ばメイリーに抱えられるようにして、オレは間近で髪の梳かれた彼女を顔を見下ろした。
「アイ、すごく疲れてるみたい……少し休んだ方がいいよ……?」
「……メイリーの、スキなように呼べば、イイ……。」
全く、そう、全く会話にはなっていなかった。が、それでもオレは、遠のく意識を必死で手繰り寄せながら、言わなければならないと思ったことだけを、どうにかして彼女に告げて……近くに腰掛けさせられたところで、オレは意識を失った。
+ + + 「大丈夫ですか。」
目を覚ますとメイリーとフェリシアがオレの顔を覗き込んでいた。どうやらメイリーが呼んできてくれたらしい。オレは軽く頷いて答えを返すと重い頭を気にしながら身体を起こした。
「これは頼まれていた合成品です。制服の生地をばらしてこのグローブに組み込んであります。対刃性と耐久性は上がったかと思いますけど。」
「あァ、アリガトよ。」
オレはようやくはっきりしてきた視界に安堵しながら、フェリシアが差し出したレザーグローブを受け取って腕に填めた。動きを邪魔するような無粋な改造は施されていない。さすがと言ったところだろう。
「いえ、お礼を言わなければいけないのは私の方ですから。」
見れば、彼女は分厚い書類の束を大事そうに胸に抱えている。それはまるで想い人を胸に抱いているかのような、そんな優しい抱え方だった。
「これは……隊長のものなんです。初めは信じられませんでしたけど……確かにあの人が書いたものです。色んな合成や付加、様々なデータが記録されています。これを元にすれば高い水準の合成がいつか出来るようになると……いえ、必ず出来ます。」
「ふむ、じゃあコイツもその“隊長”とやらのオカゲってコトか。感謝しなくチャな。」
非常勤であるオレたちは、当然制服を着なければいけないなどという決まりはない。オレはブレストプレートとケープ、後はこのグローブとブーツ。この探索用の服装の方が動きやすいし技も使いやすい。その情報とやらをこのお嬢さんに伝えてくれた誰かにオレは感謝した。
ふと気付くと、メイリーとフェリシアがオレを見ている。二人とも、何かの期待を持って。僅かな、微妙な空気の間の後で、メイリーが我慢しきれなくなったのか、口を開いた。
「アイ……んっと、さっきいいって言ってくれたから、そう呼ばせてもらうね、アイヴォリー先生。
アイは、アイは、ハルゼイさんの……」
「今は……今はまだ、止めておいた方がいいと思います、メイさん。」
メイリーの言葉を、フェリシアが遮った。どうもオレを見るその眼差しは、医者が患者を診るそれだ。もっとも、さっきまで気を失っていたのだから当然ではあるのだが。
「う……うん、分かったよ。」
「無理をさせるよりも自然に回復を待った方が良いかと思います。本当に記憶を無くしているのならば、無理に聞いても混乱させるだけですから。」
二人は僅かに寂しそうな顔で、そうやって話していた。一体なんだって言うんだ。
「オイ、ナンだッつーんだよ。オレに関係あるなら、オレのコトならオレに話してくれよ?!」
オレの頭を掠めた“何か”と関係があるのか。この突然やってくる頭痛はどうなのか。だが、いくら聞いても二人はそれ以上何も教えてはくれなかった。
七日目
「ヤレヤレ、昨日はナンとかなったねェ。」
オレは口の端にいつもの笑みを浮かべながらメイリーに微笑みかけた。同じワナを使う帰宅部連中との戦闘だった。だが腐ってもシーフの端くれだ。一方的に負けるのはもちろんのこと、ワナにハマッてやるのも気分が悪かった。そこでオレは、前から考えていたひとつのワナを実際に使って見ることにしたのだ。
通称“クモの巣”。暗殺者の基本的な訓練として、張り巡らされた鋼線をすり抜けながら目標に達するというヤツだ。要するに鋼線を相手の間合いや太刀筋──死線──に見立てたもので、暗殺者にとってはあくまで基礎の基礎にあたるものだが、これが案外ハードだったりする。鋼線は異様に細く、しかもギリギリまで張り詰められているために、掠るだけでもその部位が切れる。自分の力、体重、慣性。そういったものが動かない唯のワイヤーを凶器に変えるのだ。その位置を頭に叩き込んで走り、跳ばなければ腕や脚、下手をすれば首が飛ぶことになりかねない。
では逆に、いっぱいまで張り詰めたワイヤーを複数設置し、どこか一箇所を切ることでそのバランスを崩してやればどうなるか。ワイヤーは貯めた力を一気に解放して辺りを切り刻む。その力の方向や速度を事前に計算してワイヤーを仕掛ければ"安全地帯"を作り出すことも出来る。それが今回の代物だった。もっとも、そこまで鋭く細い鋼線を調達するのは至難の業なので、今は相手を肉塊に変えてしまうようなものではない。だが、その威力は充分なものだった。メイリーのマジックミサイルでもっとも効果的な位置に追い込まれた一人はそのまま盛大な血飛沫と共にくず折れ、もう一人もメイリーのダメ押しが入ってダウン。オマケに何とか最期の一撃を放とうと近づいてきたところでアナに落ちてゲームオーバーだ。パーフェクトゲームってヤツですかね。そんな訳で今日のオレはかなり上機嫌だった。
「うん、昨日のアイかっこよかったよ♪」
「へへ、言ったろ。オレたちはサイコーのコンビになれるッてな?」
あの敗北からたった二日で最高のコンビとは調子がイイにも程があるんだが、オレは悪戯めいた笑みでメイリーにそう問いかける。そう、ワナは所詮ワナでしかなく、相手の注意をそこから逸らして初めて真価を発揮する。この勝利はオレ一人のものではなく、二人の息が合って初めて得られるものだったのだ。
「えへへ、これからも頑張ろうね、アイ。」
メイリーも昨日の勝利が嬉しかったのかご機嫌だ。鼻歌なんか歌いながら髪の毛をいじっている。どうにも昨日から、自分の髪型がいまいち気に入らないらしい……と思わずそこで、オレは昨日間近で見た、見慣れないメイリーの髪を下ろした姿を思い出して僅かに動揺する。また昨日みたいな不意打ちを受けるより先に、オレはいつものようにメイリーの頭を手で掻き回した。
「あぁ~っ……もう、何するのよ~。元通りにするの、大変なんだからね?」
「へへ、まァメイリーはイツものオサゲがお似合いさね。お子サマニャピッタリだしな?」
オレは憎まれ口を叩きながら肩を竦めてもう一度ニヤリと笑みを浮かべてみせる。メイリーは色々と──その大半は今の"お子サマ"みたいだが──気に入らないようだったが、とりあえずお下げに戻すことにしたようだ。オレはホッとして心の中で胸を撫で下ろし、元通りになったメイリーの髪を見て安堵の吐息を吐く。やっぱりこっちの方が似合っているし、何と言っても見慣れている分何となく落ち着く。
たった五日かそこらで見慣れているというのも変な話なのだが、どこと無く、オレはメイリーのお下げを見ると落ち着いている自分がいることに気付いていた。何だろうか、表現するのは難しいが、敢えて言うならばずっと昔から傍にあるお気に入りの道具のような。使い慣れた道具がしっくりと手に馴染む安心感、あの感覚に近い。
「あっ、そうだ!」
「はえッ?」
唐突に、何を思い出したのか、メイリーが素っ頓狂な声を上げた。思わず、自分の考えていたことを見透かされたような気がして、オレは彼女の上を行く素っ頓狂な声を上げる。
「イヤイヤイヤ……どうしたよ、イキナリ叫ぶんじゃねェぜ。」
「そろそろ石を探したいのよね……今の魔石も悪くはないんだけど……。」
何かと思えば例の石ころ探しらしい。オレから見るとどれも同じ石にしか見えねェんだが……。
「そういやこの前拾った石があったろ。アレじゃダメなのか?」
オレは歩行小石を倒した時に拾った欠片を差し出す。珍しいくらいに難しい顔をして、メイリーはその石にまじまじと見入った。
「う~ん、良い線行ってるけど微妙なのよね。もう少し良いのがあるといいかな?」
「まァ山岳だしな。その辺見てきたらどうだ?」
オレたちは今、ちょっとした山の中にいる。もしかしたら貴重な石もあるかも知れない。オレはそう思って適当にそう言った。
「そうだね……じゃ行こ、アイ。」
「へッ?!」
なぜかチャッカリと、既にメイリーはオレの腕を取って歩き出している。オレは正直、自分がついて行く理由が思い当たらずにマヌケな声を出した。
「だって先生も"すみっこ石ころ研究部"の一員でしょ?
ほらほら、行くよ、アイ先生!」
メイリーは"先生"の部分をことさらに強調してオレを急かす。そう言えば、確かにオレは彼女が作ったらしいその石ころ部──長いので石ころ部でイイと思う──に参加していた。まぁ山を歩いて体力は付くし、魔力を石から感じることで自分の中の魔力が高まる……という触れ込みだったのだが。オレとしてはこの前みたいにイキナリどっかに行かれても困るので、お守りのつもりで適当に返事をしておいた。まさか、実際に連れて行かれるとは思わなかったんだが。そんなことを思い出している間にも、メイリーはオレの腕を取ったままでずいずいと山を登っていく。
「う、うひィ……ナンでこんなハードなトコを……。」
「ほらほら、もっとしっかり登って、センセ?」
明らかに山道とは呼べない急斜面を、メイリーは飛行も使ってぐいぐいとオレを引っ張っていく。伊達に部活動で鍛えている訳ではないらしい。もしかしたら、イヤ、もしかしなくてもメイリーのヤツ、オレより相当タフだ。オレは早くもグロッキー気味の身体に鞭打ち必死で引っ張られながら山を登っていく。
「ま……マダか……。」
「う~ん、この辺がいっかな♪」
この辺も何も、オレから見ると登り始めた時の光景とほとんど差のないハゲ山の一部なのだが。だが、既にメイリーは真剣な表情で辺りを見回している。オレは息を整えると精一杯の皮肉を込めて声を裏返した。
「『まァ、ステキな石コロがイッパイ♪』」
「アイ、ちゃんと探して。」
彼女の鋭い視線に口を閉ざされ、オレは已む無く焼けるような斜面にしゃがみ込んで石を探し始めた。石ばかりの場所で石を探し始めたというのも妙な話だが。
「う~ん、コレナンかどうよ?」
とりあえず、メイリーの魔石に似た白っぽい石を拾ってメイリーに見せてみる。振り返った彼女は即答した。
「それはただの石でしょ。」
ソウデスカ。オレは逆に近くにあった黒っぽい石を拾ってもう一度メイリーに声をかける。
「んじゃコレは?」
「それは小さすぎて使えないよ。」
「じゃコレ。」
「それは魔力が割れ目から漏れてるでしょ?」
「…………。」
オレはまだまだ暑い残暑の太陽を見上げてから立ち上がり溜め息をひとつ吐いた。それから呼吸を整えて、大きく息を吸い込む。
「こんなモン区別ツくかァァッ!!」「大きな声出すと魔力が乱れるよ?」
「……ハイ……。」
結局、この拷問は敵が現れるまで続いたのだった。
八日目
今日はあのシャインとかっつー国語教師とイベント戦だ。ヤツはサマナー、召喚師だから一人でも油断はデキねェ。しかもあのミニドラゴンはねこっちが呼び出してたヤツと同じだ。サラマンダーとウィスプにも注意が要る。危険スギだ。
「アイ~?」
ウルセェな、もう少し時間が必要だぜ。作戦をシッカリ立てねェと……。
「アイっってばぁ。」
イヤ、頼むからもう少し……。
「起きなさいっ!」「はえッ?」 オレは唐突に胸に落ちてきた何かに驚いて、しぶしぶ目を開けた。オレに馬乗りになったメイリーが微妙に不機嫌な顔でオレを見下ろしている。こ、コイツ……オレに飛び乗ったのか……。
「昨日はデコピンで、今日はコレか……。」
オレはまだ眠い目を擦りながら、胸の上に乗っかったままオレを睨むメイリーの脇を抱え上げて横に下ろす。胸当てを着たまま寝ていたからイイモノの、飛び降りて直撃されたら多分重傷だ。オレは起き上がって頭を掻きながら横目でメイリーを睨んだ。
「だっていっつもアイってば起きないんだもん。仕方ないでしょ?」
「仕方なくてももうちょっとこう、ソフトな起こし方はねェのかよ……。」
準備室ならイザ知らず、この広い学園を駆けずり回ることになったオレたちは、野営の機会が増えている。今日はたまたま校舎に入れた訳だが、大半はテントでの野営なので疲れも取れて爽快、というまでにはいかないのだ。
だと言うのに、メイリーは元気なもので今日も朝から快調らしい。しかも何を思ったのかオレの目覚まし役に喜びを見出したらしく、お陰でここ数日はずっとこんな具合だ。オレは溜め息を吐いて心の中で貴重な睡眠時間に別れを告げながら、準備室の中に置かれたコーヒーメイカーからコーヒーをカップに注いで一口啜る。相変わらずの安い……と言うか薄い香りだ。学園の都市伝説では、このコーヒーは歩行雑草の実から作っていると噂もあるくらいだが、この香りを見る限りあながち嘘とも言い切れない。
「オイ、メイリーも飲むか?」
彼女に背を向けたまま、なぜかオレが持たされている彼女のカップを取り上げる。かなり大振りの竹を割って持ち手をつけた、途轍もなく簡素なカップだった。大きな刃物で削ったらしい、その削り跡も残りっぱなしのかなり荒い作りをしている。だが、彼女はなぜかこのカップを後生大事に持ち歩いているのだった。
「う~ん、これでいいかなっ?」
後ろから聞こえてきた声に、どうやらオレの言葉が聞こえていなかったらしいと気付き、オレはカップを両手に持ったままでメイリーを振り返った。センセの質問を無視するとはナイス度胸だ。説教をくれてやる必要があるだろう。
「どうかな、アイ?」
かっつーん。
オレはコーヒーが入ったままの自分のカップを思わず取り落とした。辺りに淹れたばかりのコーヒーと薄い香りが撒き散らされる。熱い液体が跳ねてオレは咄嗟に飛び退いた。
「あつつつつッ!」
「ちょっとアイってば大丈夫っ?!」
シーフ渾身の飛び退きでそれほど被害はなかったようだ。オレはその場に屈み込むと顔を下に向けたままで、メイリーに手を出し制止した。
「あァ、汚れるから来なくてイイぜ。オレもそんなにカブッちゃいねェしな。ソコにゾウキンあるだろ、コッチに投げてくれ。」
だが、いつものことながら、メイリーはオレの制止を無視して雑巾を持ったままこっちへやってきた。視界の隅に黒いリボンが揺れているのが見える。オレはメイリーに気付かれないように小さく深呼吸して息を整えた。
オレが思わずカップを取り落とした理由。何を思ったか、またまた髪型を変えて喜んでいる無邪気な笑顔。黒いリボンでアップにされた細く繊細な、流れるような髪。メイリーはオレの動揺をよそに、ふわりと横に横に降り立つと一緒に床を拭き始めた。
「あ~、もう。コーヒーって中々落ちないんだよ?」
「……あ、あァ……あちちッ!」
適当に答えながら二人で大まかに床を拭き終わって、オレは雑巾を流しに向かって放り投げた。どうせ当分ここの準備室には来ないだろう。適当に水で流しておけば良い。それよりもオレには、この隣の七変化の方がずっと“問題”だった。
「あっ、ほら……こんなとこに跳ねてるじゃない。
ほらほら、ちょっと立って?」
メイリーが俺のケープの裾を取り上げ、小さなコーヒーの染みを見つけて言った。オレを立ち上がらせると、彼女はポケットから取り出したハンカチでそれを押し取っている。黒いリボンと括られて持ち上げられた髪が、オレの顔の下でぴょこぴょこと揺れていた。オレは自分の胸の辺りまでしかない彼女に、自分の鼓動が聞こえていないかとびくびくして気が気ではない。
「ん~、中々落ちないなぁ……。」
「……ん、あァ、い、イヤ、適当でイイぜ。どうせ汚れるモンだしよ。」
思わず揺れる髪に目を取られていたオレは慌てて返事をした。そのまま距離を取らせようと思ってメイリーの肩に手をかけ、そこで忘れかけていたことを思い出して思い止まった。
「あァ、後……その、ナンだ。」
「??」
あァ、ちょっとヤベくねェか、コレは。
不思議そうな表情で、身長差のせいで上目で俺を見上げるメイリー。うっかり彼女と目が合ってしまい、思わずオレは明後日の方向を見上げる。目を逸らすまでの僅かの間に盗み見るようにして見た彼女は、翠の大きな目をめいっぱい広げてオレを見上げていた。
「ナンだ、その髪……結構似合ってるぜ。」
ふふ、と胸元で忍び笑いを漏らす彼女。それに合わせて黒いリボンが揺れている。顔を少し顰めてオレは彼女を見下ろした。
「もう、相変わらず子供みたいなんだから、アイは。」
「ッ、ヤレヤレ、仕方ねェな……。」
カップを取り落としてコーヒーをこぼしたことか。それともすぐに目を逸らすことか。お子サマにそう指摘されて、オレは軽く舌打ちした。悪い気分でもないのだが、オレは無理に難しい顔を作ってそれを引きつらせながら肩を竦めてみせる。
「このリボン、アイにも似合うと思うけどな?」
「へッ?」
何を言い出すかと思いきや、明後日の方向を向いて固まっているオレをよそに、彼女はとんでもないことを言い出した。さっさと自分の髪を括っているリボンを解いてそれを持ったまま浮かび上がる。勿体ねェ、と口から思わず出かけた言葉をオレは慌てて飲み込んだ。
「ん~、やっぱりまだ短いかなぁ?」
「イテテッ、か、髪を引っ張るな。」
首筋をさらりと柔らかなそのリボンがくすぐる。メイリーはここ数日の行軍でばさばさになったオレの髪を弄繰り回して、どうにかそのリボンを結ぼうとしているらしい。オレはどことなくそのリボンの肌に触れる感触に懐かしさを覚え、彼女にされるがままになっていた。
「似合うはずなんだけどな。う~ん、残念……。」
ようやく諦めたのか、オレの髪をああでもないこうでもないと引っ張っていたメイリーは名残惜しそうに滞空を止めた。オレは苦笑して彼女を見やる。
「オトコにリボンはねェだろうがよ?」
「え~、絶対似合うんだってばぁ。前だって……。」
そこで唐突に彼女は口を噤む。はっとした表情で、何かを思い出したか、もしくは思い止まったように。まるで自分に何かを言い聞かせるようにして思い止まったメイリーの寂しげな表情を見て、オレはつい解かれた彼女の髪を掻き回した。
「まァ……伸ばす時があったら、な?」
「うん。絶対似合うの、分かってるんだから♪」
オレの言葉を聞いてメイリーが破顔した。オレは何とか彼女が笑ったことでこっそりと安堵の溜め息を吐く。どうやらまだまだこのお子サマには油断できないらしい。
「…………。」
「どしたの、アイ?」
オレはふと、何かを忘れているような気がして黙り込んだ。何か大事なことがあったはずだ……。
「あああッ、単位だ、戦闘だッ! メイリー、作戦立てるぞ作戦ッ!」 オレは一番大事なことを今更思い出して、メイリーが飛びあがるほどの叫び声を上げたのだった。
九日目
薪潰し部。天幕から送り込まれたドワーフ、キーロのやってる団体だ。個人的には薪はそもそも潰すもんじゃないと思うんだが。割るというか、潰すための体格と、物の弱いところを突くための器用さが身につく。……ホントかどうかは怪しいものだが。なぜか“薪を潰す様を見てみたい”という奇特な趣味を持つメイリーまでついて来ている。しつこいようだが、薪は割るものであって潰すものではない、と思うんだが。
「楽しみ~♪」
「んなモン見てどうす……。」
キーロの爺さんがいる辺り、木々がまばらになって小さく開けている広場に入ろうとして、オレは言葉を切り足を止めた。何かの違和感。無言で腕を挙げ、横にいたメイリーを制止する。
それまでの道と風景はほとんど変わってはいない。だが雰囲気が──空気が持っている質感、オレが風として感じるそれが──違っていた。
「アイ、どしたの?」
メイリーがオレに聞いてきた、その時。
「……ッ!」
オレは咄嗟にメイリーの頭を抑えつけて上から覆い被さった。危うくオレたちの頭上、さっきまでオレたちの顔があった辺りを拳大の木の破片が通り過ぎる。ケープを彼女に被せたまま、オレは飛んでくるもっと細かい木の破片を手を翳して払い落とした。
「……そこにおったか。」
広場から抑えた声が響いてきた。オレはケープから木屑を払い落とすとメイリーを伴って姿を見せ、不敵な笑みを口の端に浮かべて見せる。
「随分な歓迎じゃねェか、爺さん。」
「少々手元が狂うたわ。」
謝りさえせずに、同じように口の端で笑うキーロ。倍ほども身長の違うオレたちの視線が交錯する。だが、僅かな間の後で、オレが口の端の笑みを深くして目を逸らす。ケンカを売りに来た訳でもない。試されたというのは気分が良くはないが、とりあえず躱して見せたのだし良いだろうと思ったのだ。
「メイリー、帰った方がよくねェか?
今みてェなヤツの近くにいたらアブねェぜ。」
横にいるメイリーを顧みて俺は声をかける。オレだけならともかくメイリーまで庇えるかどうか自信はない。だが、オレが目をやった先には、切り株の横に立っているキーロに目をキラキラ輝かせて賞賛の眼差しを向ける困ったお嬢さんが一人いるだけだった。
「すごーいっ、ガガルさん、今のどうやったのっ?!」
「ッてオイ。」
思わずツッコミを入れるオレ。だがメイリーはオレの方を振り返ると満面の笑みで答える。
「だってまだアイがやるとこ見てないよ~。
それにまたさっきみたいにアイが守ってくれるから良いの!」
「どうやってオレがヤッてる時に守るんだよ……。」
オレは口ではそう言いながらも諦めの溜め息を吐いた。彼女は一度言い出すと絶対に引かない。それがどうでも良いことならなおさらだ。
「良いか……?」
ここに来た目的をそっちのけでいつもの遣り取りをしているオレたちにキーロがそう声をかけた。ずっと鋭い視線が注がれていたのは知っている。だが、この爺さんは危険だ。恐らくは、全ての事象に対して唯一の秤しか持っていない。つまり強さだ。この爺さんはオレたちの様子を観察している。だからオレは適度に反応をせず、それなりに強いということを示して帰ろうと考えていた。味方でも最大限の力を見せずに自分の腕を隠しておくというのは、暗殺者の時に得た大きな教訓だった。
「あァ、イイぜ。」
ようやく視線を向けたオレに、彼は目を細めて口元で笑う。その表情からは、認められたのか呆れられたのかは定かではない。お互いに表情を隠すために笑みを浮かべている、そんな感じだった。
無言でキーロが切り株の上に、次の薪を置いた。それから自分は二三歩下がり、オレに場所を空ける。
「へ……メイリー、もう少し下がってな。」
オレは僅かに思案すると、メイリーに声をかけて下がらせた。オレのヤリ方だと、立ち位置が僅かにずれただけでも巻き込まれかねない。
「オーケィ、ソコでイイぜ。」
メイリーが下がったのを確認してオレは爺さんを振り返り、口元で冷たく笑みを浮かべて見せた。それから、無造作に傍らに立ててある薪を軽く蹴った。薪といってもオレの胴回りほどある太いヤツだ。オレに足蹴にされた薪は、ゆっくりと切り株から傾いで──落ちる。オレはそれを最後まで見る間もなく腰を落として姿勢を低くした。
乾いた金属音。重いものが跳ね上げられる鈍い音。風切り音。そういったものが次々に耳に届き、オレは上手くいったことに確信を持って顔を伏せたまま口の端で笑みを浮かべた。頭上から細かい木の破片が降ってくる。髪を掠めて奔るワイヤーが計算通りに踊り狂っていることにオレは小さく安堵の息を漏らす。ちらり、と頭上に目をやると、落ちる時にワイヤーに跳ね上げられた薪が空中で翻弄されながら、そのまま切り刻まれて小さくなっていくのが見えた。
「ッ!」
突如、空中で踊っていた薪が、金属同士が擦れる不快な不協和音と共にダンスを止めた。中途半端に切り刻まれた薪がオレの足元に重い音を立てて落ちる。オレは舌打ちと共に立ち上がりキーロの方を睨んだ。
「……ふん。」
真横にキーロが突き出した鎚の柄に、薪のダンスの相手が絡まっている。オレの武器、つまりこの辺りに張り巡らされたワイヤーの端だ。
「すっごーい、アイ!」
「……ヤッてくれるじゃねェか、爺さん。」
オレはメイリーが喜んでいるのにも構わずに、キーロに押し殺した声で呟いた。無表情な瞳で、キーロはワイヤーを鎚に絡めたままオレを見返してきた。
今のエンタメはここで終わりではなかった。延々と空中で削られた薪は粉々の破片になるまで地上に落ちてこないはずだった。潰すというからにはそれくらいしなければとオレが思ったからだ。
ワイヤーは、最初に薪の重みで切れたトリガー部分から、次々に巻きつけられて溜め込まれた力を解放しながら連鎖的に切れていく。薪を切り刻みながら、それと同時に次のトリガーを切る役目も果たしている。それは精巧な機械のようなものだ。だが、どこかで力が止められれば、それ以降力は薪へ伝わることは無く、次のワイヤーへ伝えられることもない。キーロがワイヤーの軌道上に鎚を差し出し、そこにワイヤーを巻きつけたことで力の伝達が止められてしまったのだ。
木屑が舞い散る中、キーロは鎚にワイヤーを巻きつけたまま微動だにしない。まだワイヤーには力が残っている。それに対抗するように鎚を動かさないのには力が要る。オレは密かにこの爺さんの膂力に舌を巻いた。
「これでは、潰したとは言えんな。」
「コレがオレのヤリ方だぜ。文句言われるスジ合いはねェぞ。」
だが、そこでオレは急に静かになった後ろが気になって振り返った。さっきまで騒いでいたメイリーがやけに静かになっている。オレが目をやると彼女はその場にうずくまっていた。
「オイメイリーッ、大丈夫かッ?!」
オレは慌ててメイリーに駆け寄った。確かに安全な場所まで下がらせたはずだがあのお子サマのことだ、勝手に前に出てきてワイヤーに引っ掛けられたとも限らない。オレはメイリーの傍らにしゃがみ込むと彼女の顔を覗き込んだ。
「いたた……木の粉が……。」
涙をぽろぽろ流しながら目を擦ろうとするメイリー。オレはワイヤーが直に当たった訳ではなかったことに安堵しつつも、彼女の手をムリヤリ取って捩じり上げた。
「オイ、コスるんじゃねェよ。……ホレ、コッチ向いてみな?」
「う~っ、いたいよアイ~……。」
腕を掴んでメイリーをゆっくり立たせると、オレは潤んだ彼女の目を覗き込む。木屑が入ったのに擦ったりしたら面倒だ。思わず目に持っていこうとする腕を捩じり上げたままでオレは彼女に顔を寄せた。
「あ~、赤くなッてるな……ちょっと動くなよ?
オイ爺さん、悪ィケドフェリシアの嬢ちゃん呼んで来てくれ。続きはマタ明日だ。」
「……まぁ良いわ。」
キーロは何か言いたそうだったがそれどころではない。オレはメイリーの目を覗き込んだままでグローブを咥えて脱ぐと、小指の先を舐めて湿らせる。
「動くんじゃねェぞ……マバタキもするな。」
「やーっ、無理よアイそんなの!」
相変わらず誤解を受けそうなメイリーの叫び声は、フェリシアが駆けつけるまでずっと続いていたのだった。
十日目
「んん……。」
誰かに呼ばれたような気がして、オレは身を起こした。天幕の入り口から隙間を縫って薄い朝の光が差し込んでいる。ちょうど日が昇ったところらしい。ツマリはまだ休息時間で、オレは必要以上に早起きしてしまったらしい。
「チッ……気のせい、か。」
貴重な睡眠時間を無駄にしたことに毒づき、オレはもう一度寝袋に潜り込もうとした。だが、何かが気にかかる。“風”が、オレを呼んでいた。
「……仕方ねェな。ワナの準備でもしながら朝を待つか。」
オレは荷物からワイヤーの束を取り出すと、それを持ってオレを呼んでいる何かを探しに──何の当ても無く──天幕から外に出る。こうなってしまえばもう眠ることは出来ない。“シーフの勘”が呼んでいるのか、実際に何かが呼びかけているのか。ともあれ、オレのこういった時の勘は往々にして的中する。それで事前にパーティを導き野営への襲撃を免れたこともあった。自分の勘を信じられるかどうかというのはシーフの腕のひとつだ。
オレは足の赴くまま、ワイヤーの束を持って仲間たちの天幕を巡回する。この静かな夜明けの時間帯に気の乱れている場所を見つけるのはそう難しい作業ではない。
「ココ、か。」
ひとつの天幕の前でオレは足を止めた。木を軸に組まれ、枝と葉で覆われた小さなその天幕は、オレの相方、つまりメイリーのものだ。眠っている女の天幕に忍び込むというのはあまり誉められる類の行為ではない。オレは暫し天幕の前で逡巡すると、自分の考えに苦笑いして垂れ布を持ち上げた。女とは言えお子サマだ。誤解されるようなこともないだろう……何回かあったような気もしないでもないがまあ些細なことだ。
入り口の垂れ布を潜ると、中には中央にハンモックが吊られ、そこで天幕の主が眠っていた。特に異常があるようには見えないが、まだオレの感じている違和感は消えていない。オレは小さく溜め息を吐くと、傍らに置かれた、切り株を適当に加工して作られた椅子に腰を下ろす。少し様子を見ていってやるのも良いだろう。
「アイ……。」
「ん?」
メイリーが小さくオレの名前を呼んだ。が、答えたオレの言葉に対する反応はない。どうやら寝言らしい。どんな夢を見てるのかは知らないが、のんきなお嬢様だ。オレは苦笑してワイヤーの束をばらし始めた。
罠を張るのには周到な準備が要る。特にワイヤーを使ったオレの主力“クモの巣”には、張り巡らせるためのワイヤーを準備しなければならない。敵の頭上の岩や木を使うドロップ系のトラップやくぼみを使って即席で展開できるピット系のトラップとは違うのだ。
ワイヤーの端を咥えて固定し、それを引っ張って束から一本のワイヤーを引き出していく。鋼線といってもかなり細いものだ。展開する時に絡まったりすればそれだけで切れてしまう。歯でしっかりと端を固定したままでワイヤーを次々に引き出すと、適度なところを見計らってダガーで切った。これ一本でも人間を一人完全に縛り上げるのに余りあるほどの長さになる。
「帰って……来るよね?」
唐突にメイリーが呟いた。また寝言らしい。注意をそちらに向けたが、彼女がまた規則正しい寝息を立て始めたのを聞いて、オレは苦笑しながら作業に戻った。
切り株にダガーを刃を内側にして突き立て、二の腕ほどの長さを取る。ダガーを支えにしてオレはその長さに合わせ、もう一度ワイヤーを巻き取り始めた。細長い束にして、規則正しく二の腕の長さでワイヤーをまとめていく。そのままの状態でオレはワイヤーの端を使って束自体をばらけないように軽く束ねた。それから咥えていた側の端を使って極小さな小石を結びつけた。
「ふゥ。」
小さく溜め息を吐くと、オレはレザーグローブを脱いでその内側のポケットにワイヤーの束を納めた。小石が手首の邪魔にならない位置で収まるように少しずらしてからポケットの内側のバンドで固定する。
ワイヤーの基本はこれで一単位だ。これを無数に両手のレザーガードに仕込み、戦闘が始まった時に小石を引き出して投げるのだ。それで一辺を固定して後はオレが適切なルートを手首からワイヤーを引き出しながら走る。それを何回も繰り返すことでようやくひとつの罠が完成するのだ。
「……アイっ……。」
またメイリーがオレの名前を呼んだ。一段落して次のワイヤーを取り出そうとしていたオレは手を止めて彼女の傍らに歩み寄る。その呼び声が真摯な哀切さに染まっていたからだ。だがまた寝言だったらしい。もう一度苦笑を浮かべようとしたところで、オレははっと身を固くした。
閉じられた瞳。そこから流れる一条の雫。彼女は静かに涙を流したのだった。
「……オイオイ、どんなユメ見てるんだい……?」
オレは小さく呟くと、彼女の頬を伝った雫を指先で拭う。オレは魔法使いじゃないから彼女の夢に干渉出来ない。精々こうやって涙を拭ってやることしか出来ないのだ。それをもどかしく思いながら小さく溜め息を吐く。彼女がどんな夢を見て、何に苛まれているのかを知りたいと、痛切にそう思った。
「ふふ……知りたいかい?」 頭の中で、唐突に聞き覚えのある傲慢な声が響いた。脳裡に真紅の瞳が閃き、オレは額を押さえてよろめく。
+ + + 白いケープ、長い白髪を黒いリボンで纏め。片目は失われているのか黒い眼帯で覆っている細身の男。砂地に膝を立てて座り込み、右の肩当てに腰掛けて足を遊ばせる小さな妖精と歌を歌っている。ずっと一緒だと奏でる、二人の歌。
どこかの宿。小さな妖精は机に腰掛けたままで窓の外を眺めている。旅立ちが近いのか、傍らに置かれた二人分の背負い袋。足元にやってきて彼女を見上げて鳴く黒猫。それを見下ろして寂しげに彼女は呟いた。
「アイ……どこ行っちゃったの……?」
傍らに白い風の姿は無く。
「悪いね、“象牙”。帰る時間だよ。“裏切り者”の運命を与えられた暗殺者、キミの出番は終わりなんだ。」
「クソッタレ!
テメェらのスキにさせてたまるかよッ!」
ブーツから二振りのダガーを抜き放ち、白と黒の羽を持つ少年に肉薄する白い影。少年のたおやかな指が白い影の額を指し、静かな詠唱が漏れ出る。
「帰って……くるよね?」
寂しげに荷物を眺めて、一人呟く小さな背中。彼女の心の内を語るように力なく垂れ下がった羽翅。白い影は帰ることもなく。静かに彼女は頬を拭った。その心の中に生まれた不安を跳ね飛ばそうとして。
「寂しいよ……アイ、どこに行っちゃったの?」
+ + + オレは呆然と、彼女の頬に手をかけたままで立ち尽くしていた。噛み締めた唇が血の気を失っているのが自分でも分かった。
“裏切り者”。シェルは隻眼の暗殺者をそう呼んだ。目をきつく閉じ、漏れ出そうになった呻き声を押し殺す。
「寂しいよ……アイ、どこに行っちゃったの?」
ずっと、ずっとオレの名前を呼んでたんだな。
天幕の裏地を見上げて吐息を吐く。無様にも、オレは感情がコントロールできなくなっていた。ゆっくりと深呼吸して、周りの木々に心に溢れる想いを逃がし、オレは目を開いた。
メイリーの流した涙の跡が、頬に痛々しく──そう、痛々しく残っていた。それをグローブを外した手で優しく撫でると、オレは眠っている彼女に泣き笑いのような無様な顔で微笑みかけた。
「もう……大丈夫さ。そう、きっと“オレ”は何度もそうやってメイリーに言ったんだろうな。
ゴメンよ、イツもイツも……な?」
どうして、こんなことさえ許されないんだろう。たった一人の、大切な者の傍にいてやることさえも。
オレは沢山のものを裏切り続ける自分に嘲笑を浮かべて、自分の人差し指に接吻けた。それからその指をそっと彼女の額に押し当て、心の底からの想いを込めて小さく呟く。
「イイユメが、見られますように……。」
+ + + 新しい実験体に関しては、未だに未来は確定されていないようだ。先を覗いても全くの暗闇で何も見えはしない。間に挟まれた条件分岐が多すぎていくつかの可能性提示すらままならないのだ。
そう言えば、いつか彼女を書斎へ招いて実験体の存在意義を教えた時に、彼女は“かわいそう”だと言った。突然想い人に置いていかれた自分を、ではない。僕の実験体として存在する彼の運命を、だ。それどころか、素晴らしい実験結果を弾き出してくれた礼として僕が提示した「安定した幸福な未来」を拒絶し、彼と共にもう一度挑戦することを選んだのだ。
確かに、それは素晴らしい決断だとは思うよ、小さな妖精。僕もそう仕向けたのだし。だが、君の知っていた彼は、今の彼が属している虹色天幕の、此処の敵だったのだ。“彼”が戻ったとして、君は一体どうするつもりなのだ。君が作った友人たちは彼の敵となり、彼自身ももう一度裏切りの運命を繰り返さなければならないというのに。
何にしても、このまま負けが込むようでは困る。彼は天幕に対して戦闘用として引き渡したのだから。欠片として潜伏している以前の存在が統合されれば彼女との相乗効果で高い能力を発揮するだろう。妖精騎士としての能力も解放される。だが、それでは天幕に存在できない。ここからどれだけ実験体が彼女と新しい関係を構築していけるかにかかっている。
十一日目
「あァッ、クソッタレがッ……!!」
オレは悪態を吐くと相手を睨み付けた。明らかに強い。格上というヤツだ。どうやらメイリーも既に立っているのがやっとらしい。精神力も付き、オレの罠も唯一つを除いてすべて使い切っていた。それでも相手が大きなダメージを受けた様子はない。敵の片割れである黒魔術部員が両手を広げ、その手の間に魔力が収束し始めた。
「チッ……来るぞメイリー!」
そう声をかけたものの、メイリーもオレもあのブレインイーターをもう一撃耐え凌げる自信など無い。後唯一望みがあるとすればそれは……。
「仕方ねェ……ヤるかッ!」
オレは手首に仕込んだ小石の中から、識別できるようにひとつだけ色を変えておいたそれを見つけ、手首から引き出した。これだけは、既に編み込んであるので走り回る必要はそう無いのだ。上手くやれば相手の詠唱が終わる前に展開することも出来るかもしれない。
「イケるかッ?!」
オレは投げた石を追いかけるようにして相手を大きく飛び越した。木の枝にしっかりとワイヤーが絡まったのを見ながら、木の幹を蹴って折り返す。頭を下に滑空してダガーを握った右手だけで着地の反動を殺すと相手の頭上に眼をやった。オレが飛び出したメイリーの横の切り株、石を投げた木の枝、そしてオレの左手の三点を始点にして、相手の頭の上に予定通りクモの巣を模った幾何学模様に、極々細いワイヤーが展開されている。ここまでは大丈夫だ。オレはそれだけのことを一瞬で見て取ると、左腕からワイヤーが引き出されて指を切るのにも構わず相手に走り込む。
「間に合えええええッ!!」
相手の懐に走り込むと、オレは相手の視線からメイリーを遮るようにして前を通り過ぎる。対象を決めかねたのか、黒魔術部員の無表情な化粧の下から覗く視線が一瞬泳いだのを見てオレは行けると確信する。相手が迷ってくれればくれるだけ、オレに時間が与えられるというものだ。
「ふッ!」
気を吐いて、オレに狙いを定め直す相手の右を飛び抜けた。着地と同時に地面を蹴って相手の左脇を転がって通り抜ける。最後にワイヤーを切らないように飛び越して、そのままオレは相手に背中を向けたままで離れた。
背中越しに、メイリーよりも強力な魔力がオレに収束してくるのが分かる。だが、もう遅い。オレは相手に背を向けたままで左手を強く引いた。それによって黒魔術部員の周りに巡らせたワイヤーが一気に巻き取られ、相手を締め付ける。詠唱を妨害されて放たれる寸前だった魔力が霧散していくのを背中で感じながら、相手を逃がさないようにオレは手首を返し、ワイヤーを歯で固定すると唇が切れるのも構わずそれにダガーを当て、冷たく笑みを浮かべた。
「風の乙女に抱かれて踊りな……マカブルなダンスをよ。」
普段使っているものよりもさらに細い鋼線は、いとも簡単にダガーで切れた。鋭い風切り音。引き絞られた鎌鼬が相手に向かって収束していく音。暗殺者の時代に訓練で使っていた、切り裂くための鋼線で編まれたクモの巣が相手を絡めとり、溜め込まれた力の反動でその肉を切り裂く。
「へへ、ユダンタイテキ、ッてな?」
オレは勝利を確信してゆっくりと立ち上がり、振り返った。刃の網に捕らわれた黒魔術部員は、それでもどうにかして立っていた。オレは目を細め、相手の強靭さに舌を巻きながらも止めをくれてやるためにダガーを構えて近づいた。その時だった。
「アイっ、危ないっ!!」
「マダかよッ!」
そう、油断大敵。まだ詠唱を持続させていたのか、黒魔術部員の手の中で魔力が急激に膨れ上がり、オレは魂を揺さぶられるような一撃を受けて吹き飛ばされた。視界が白く霞んで行く。オレは心の中で舌打ちしながら気を失った。
+ + + ふん、まだこんなものか。もう少しやれると思ったのだけれどね。 どこからか、聞き覚えのある声が響いてくる。目の前は暗い。オレは徐々に覚醒していく自分を意識しながら何があったのかを思い出そうとしていた。
「もう良いよ、戦闘プログラムを終了してくれ。充分だ、これ以上は見ても仕方が無い。」「戦闘プログラム、終了します。」
そこでオレは完全に覚醒した。ここは……ここは天幕の訓練室だ。オレはこれから向かう任務の場所に合わせた仮想システムで訓練を受けて……。そこでオレははっとして、自分が入っていたカプセルのようなポッドの扉を押し開けた。
「……ッ、メイリーは、メイリーはどうしたッ?!」
「まだ混乱しているようだね。困るな、そんなことじゃ。」 飛び出した先には、暗い訓練室の中に一箇所だけ明かりが灯り、そこに真紅が浮かび上がっている。オレに声をかけた紅のローブ姿は、オレに目をやると傲慢な含み笑いを漏らした。
「今のは仮想世界の出来事だ。分かっているだろう。訓練プログラムは終了だ。
まだ戦闘力に不安はあるけれど、もう時間も無い。準備をし給え、“象牙”。」「ばッ、バカなコト言ってんじゃねェぞ!
オレたちは、オレたちはッ!!」
だが、覚醒したオレの頭は、もう混濁していた時の幻を現実だとは認識してくれない。オレは胸を締め付ける何かの苦しさを感じながら自分に問うていた。
……全部、嘘っぱちの中での出来事だったのか?
オレを見つけた時の、あの翠の瞳が喜びに輝く様も。
二人で肩を並べて戦ってきた毎日も。
石を拾いに二人で山へ登ったことも、髪を結い上げて無邪気に笑う笑顔も。
……あの時に見せた、あの静かな涙も。
「……さぁ、どうだろうね?」 オレの考えを読み取ったように、クソッタレの声が聞こえた。オレは無言で傲慢な道化師を睨み付けると小さく舌打ちする。全てを知ったかのように振舞うその顔に、オレは一発見舞ってやりたくてしょうがなかった。
「歴史は……書かれた時点で歴史として確定する。夢も、幻も、想像も。そして、希望すらもだ。
書き記されたことは厳然として、歴史として存在する。」「クソッタレ……。」
オレは小さく吐き捨てて立ち上がると、いつものように自分の観念でしかものを言わないふざけた男の横を通り過ぎ、訓練室の扉を開いた。やり切れない。そう、どこへもぶつけようの無いやり切れなさが、オレの心をクモの巣のようにして絡め取り、切り裂いていた。
全部、ユメだったのかよ?
オレは呆然としながら、その独特の切なさに潰されそうになっていた。そう、それは確かに、大切なものをようやく見つけながら、それが夢だったと目が覚めて気づいたときに感じるあの切なさだった。
「それを決めるのは君自身さ。
さぁ、失敗したことも、成功したことも、全てを心の中に留め置いて、君の戦場へ行くが良い。それは君の行く末に少なからず影響を与えるだろうから。
ふふ……やり直しの機会が与えられるというのは、とても幸運なことだと、僕はそう思うよ?」全部がユメだったなんて、絶対に認めねェ。
オレは心の中できりきりと痛むその気持ちを、抱き締めるようにしてしっかりと自分に刻み込み、暗い訓練室を出た。そう、これからが本番だ。今度は──イヤ、もう二度と──負けることは許されない。
誰かのために。大切な、護ると誓った誰かのために。
+ + + + + + 彼に伝えたことは、唯の観念でもなければもちろん嘘でもない。厳然とした真実の一面だ。確かに、彼が体験したのは天幕が準備した仮想訓練に過ぎないかも知れない。だが、しかしだ。
それは僕を通じて記されてしまった。後は、歴史として存在したこの真実を、誰が、どのように解釈するかなのだ。歴史というものは、所詮記されたものであって、記した者のフィルタを通した一面的な概念であるのだから。
後は彼──つまり僕の実験体、“象牙色の微風”と名付けられた暗殺者──が、これまでに起こったことをどう解釈し、どう理解するのか。そして、これを読んだ者がどう解釈し、どう理解するのか、ということだ。そこには無限の可能性が、そう、何一つ確定してはいない可能性たちがある。 僕はそこまでを書き留めると、君に視線をやった。携帯用の端末を通して事の顛末を追っていた君は、既に紅茶が冷めてしまっているのにも気づかずにそれを啜る。僕は苦笑すると空になったカップにもう一度ポットから薄めに出したアールグレイを注ぐ。紅茶がもう温くなりつつあることに気づいた僕は、立ち上がると流しに残りを捨て、新しい葉を入れてから充分に温められた湯を注いでもう一度淹れ直すことにした。
「それで、どうなんだい?」
端末にかかりっきりの君を見て、僕はそう静かに聞いた。だが少し待ってみても答えが返ってこない。僕は片頬で歪んだ笑みを浮かべると、もう一度君が気付くように聞き直すことにした。
「それで、どう思うのか聞かせてくれないか?」
君はようやく端末から目を離すと僕の方を向いた。“これ”をどれだけの人が読んでいるのかは分からない。だが、その数は限りなく少ないだろう。君が大切な読み手であることを再確認しながら、僕は君の目を見つめて小さく微笑みを浮かべた。それから、君は僅かに首を傾げて思案するとゆっくりと僕の問いに答えるために口を開き……
ここでテストプレイ終了。本編との整合性を付けなければならない上に、他の人がどう処理してくるか分からないので「天幕での訓練」(夢オチ1)と、「書かれた物語」(夢オチ2)という、かなり物悲しいことになっています。
結局収拾した訳ではないので要するに投げっぱなし。お陰で本編が始まってから他のプレイヤーはどう処理したのかを手探りしつつ話を進める、という酷い結果になったのでした。
- 2007/05/16(水) 12:39:36|
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