僕は、お気に入りの椅子に身体を預けたままで、少しの間茫然としていた。今さっき、この瞬間まで、確かに腕の中に彼女の重みがあったのだ。その、僕以外には気付くことも出来ないほど微かな笑みが、確かに僕に向けられていたのだ。そのどこまでも透明な灰色。
だが、その現実は僕の午睡みとともいとも簡単に破られてしまった。
あれからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。十年、二十年、いや、もっとなのだろうか。僕は常に彼女の影を追い求め、そのときに自分が為しえる全ての手段をもって彼女の“再臨”の準備を整えていた。あるときは唯神に祈り、あるときは神を恨み、またあるときは知る者すらない玩具を直すものを求めて最果ての図書館へと足を運んだ。あるときは手に入れた力を制御するために様々な紙に様々なものを綴った。だが、未だ僕の望みは果たされていない。あのときから一体どれだけの時間が過ぎたのだろう。
僕は小さく溜め息をつくと首を振った。そう、時間など存在しない。僕は、あのときに進むことを止めたのだから。僕の時は止まり、あのときから僕は動かない。彼女の時間と共に、僕は自分の時間を止めたのだから。やらなければならないことを成し遂げるまで、僕に迷うことは許されないのだから。
それでも、稀にこうして残虐な神様は僕に未だ為しえないことをいとも簡単にやってのける。たとえそれが偽りの、儚い間だけの幻であるにしても。
僕は少しだけ唇を噛み締めて身体を起こした。机の隅に据えられた異界の時計が、僕にとって意味のある時間を指しているのを見て、僕はようやく気付く。普段気にしていないはずなのに、僕の時間は止まっているはずなのに。それでも、どこかで何かが成し遂げられるたびに、この時計は進む。そうして、あのときをまた僕に訪れさせる。
「もう少し、もう少しだから……もう少しだけ、眠っていてくれないか……。」
僕は冷めた紅茶を一口啜り、幻の重みと微笑みを振り捨てた。どこまでもう少しなのかも分からないままで。
+ + + 「さようなら、人の子。貴方と過ごした半年の間、とても楽しかったわ。」
空を映す湖のような青い瞳。澄んだ空の、湧き出る泉の、どこまでも透明な青。彼女は彼を責めることもなく、淡々とした様子でそう彼に告げた。流暢な人間の言葉で。
予定通りに任務を遂行した彼の正念場は、実際にはここからだった。それはいつものことで、完璧にお膳立てされ、そこまでを機械的に進めていく暗殺の瞬間までと異なり、そこから帰還までの道のりは全く定められていない場合が多い。定められた回収の期限──それは同時に任務の期限でもある──が存在するだけだ。それまでに作戦が成功で終わり、本人が帰還出来なければ、今度はギルドが能動的に探しに来る。つまり、抹殺するために。
ギルドは任務遂行後の安全までお膳立てしてはくれない。回収の約束がなされた時間と場所までは自分で生き延びなければならないのだ。それは単に暗殺者を訓練するためには莫大な費用が必要で、任務を達成できるほど有能な暗殺者をもう一度使わないのはコスト的に無駄だからだ。そもそもギルドが受け取る報酬は、有形無形に関わらずで言えば一つの仕事だけで暗殺者を一人育て上げる以上になるのだから、ギルドとしては仕事が達成されてさえいれば最低限の元は取れることになる。そういった理由から、暗殺者の仕事は、任務を達成させてから帰還までの時間が、本人の生死に関しては正念場なのだった。
相手はエルフ、しかも場所は彼らの知り抜いた森の中。彼らの長を手にかけられたエルフたちは、彼が知る中ではかなり怒っていることだろう。それこそ彼らがその風習で森の中心として崇める“生命の樹”を切り倒しでもしない限りは、今以上に彼らを怒らせることはできないはずだ。やはり人間など信用するに値しなかった、と息巻いているだろう彼らは必死でその暗殺者を探し出そうとするはずだ。
そんなエルフたちの中で、彼女だけは全く──彼の想像を超える──反応を見せたのだった。一度は人間たちの組織的な侵攻から自らを守り、もっとも信頼していた人間に親を殺された場面に行き当たってしまった彼女は、当然それまでの悠久の時の中で培った魔術で自らと森を手酷く裏切った男を焼き尽くすはずだった。少なくとも、彼はそう考えていた。だが、どこまでも澄んだ瞳でまっすぐに彼を見つめた彼女は、ただ彼に逃げるように促したのだった。予定外に一戦交えなければならないと覚悟を決めた彼は、彼女の言葉に一瞬戸惑い、それからすぐに背を向けた。そもそも任務を遂行するために近づいたのだ、戦う必要がないのであればそれに越したことはない。それに、彼女の魔術の恐ろしさは彼自身、森へと侵攻して来た人間たちを迎え撃ったときに彼女と肩を並べて戦ったためによく知っていた。とてもではないが、彼には彼女と戦って無事に帰れるとは思えなかった。
そうして背を向けた彼に、彼女は視線を外すことなく、声をかけたのだった。
「さようなら、人の子。貴方と過ごした半年の間、とても楽しかったわ。」
彼は、その言葉に答えずに、夜の森の闇の中へと姿を消した。そして彼女の導きに従って、無事に森を出た。
二つの国を分かつようにして広がるその森は、どちらの国に対しても魅力的な土地だったのだ。肥沃な土壌、広大な土地。人口が増えてゆく中で、農地を確保するのは容易いことではない。ある者は武力で制圧することを推し、ある者は共存することで彼らの森を少しだけ切り開く同意を得ようとした。だが、一つの国の中でさえも、その意見は一つではなく、政治を執る者たちは対立していた。エルフたちは協調路線に同意しようとしていたが、長が暗殺されたことで一気に態度を硬化させた。エルフたちは人との交渉を取り止め、人間たちもそれに呼応するかのように武力での制圧を推し始めた。協調推進派は失脚し、エルフたちは森を守るために絶望的な戦いを強いられることになる。
そうして、そこにあった広大な森は全て消えた。
エルフたちは、基本的に森なくして生きていくことは出来ない。たとえ森から旅に出る者があっても、決まった時期には必ず戻ってくる。その戻る森を失ったエルフは、行く当てもなく世界をさ迷い、どこかで立ち枯れの木のようにして朽ち果てる他ない。
彼女を裏切って長を殺めた暗殺者は、森を抜け出して、森を消して、彼女を間接的に殺して、それでもまだ生きている。それでもまだ、その青い瞳に追いかけられ続けている。
+ + + アイヴォリーは薄らと目を開くと微かに身震いした。そろそろ冷たい夜気が身に染みる季節になってきた。それで目が覚めてしまったらしい。目を閉じてもう一度眠りに戻ろうとしたアイヴォリーだったが、一度感じて目を覚まさせたその冷気は彼の感覚を刺激して、どうしても眠らせてくれなかった。身体を縮こまらせて、毛布を身体に巻きつけていたアイヴォリーはややあってから不機嫌そうに身を起こした。毛布を払いのけると、頬を掻きながら気合の入らない様子で天幕の外へと出る。まだ外は朝さえ遠く、真っ暗闇の砂漠だった。自分たちが歩んできた方角へと視線をやると、この前戦って宝玉を手に入れた森の一角が遠く、遺跡の床の向こう側にあるはずだった。訓練によってある程度暗闇の中でも目が利くアイヴォリーだが、当然ながらここまで離れてしまえば森は見えない。だが、その身を貫くような寒さは、あの時と同じそれだった。
「そういや、こんなときだったよなァ……。」
あの時は長を手にかけ森を滅ぼした。今度は宝玉を持ち去って──島の力の根源である宝玉を持ち去れば、あの森は消えていくのだろうか──また同じことをしようとしているのかも知れない。アイヴォリーは小さく身震いするとその想いをどこかへと押しやるようにして溜め息をつく。
昔のことを悔いても仕方がない。それは分かっている。それでも、あの青い瞳はまだこうやって彼を追いかけてくる。
あのときと同じ季節が来たから……思い出しただけさ。
強くそう自分に言い聞かせ、アイヴォリーは自嘲の笑みを浮かべた。そう、もう何も出来ることなどない。あのときに戻ることは出来ないのだから。
「アイ……どうしたの?」
寝ていたはずの彼の相方が、彼の背中に声をかけた。アイヴォリーは彼女に背中を向けたままで肩を竦める。
「ナンでもねェさ。ソレより戻らねェとカゼ引くぜ?」
「うん……寒いね。」
言われた言葉とは逆に、彼女の声が近づいてきてそっと手に温もりが伝わった。手甲越しにでも感じられる、確かな暖かさと重み。小さな、アイヴォリーのそれよりもずっと小さな手。
それでも、彼女は、確かな存在感を彼に与えていた。
イイじゃねェか。今は大切なモノがあるんだから。今は、ソレで。
「サムい、ねェ。」
言葉とは裏腹に、自分を包むケープを外して彼女の肩にかける。エルフたちからあの村で作り方を教わった唯一の、本当の魔法の品のケープを。真の闇に近い暗闇の中でも、その姿隠しの外套は充填された魔力で淡い光の粒子を吐き出した。一瞬だけ、彼女の髪がそれを反射して仄かに煌いた。
「さァ、寝ようぜ。明日も全力で移動だ。休みナンかねェからな?」
ようやく彼女に振り向けるようになったアイヴォリーは、いつもの笑みでメイリーにそう言った。思い出してしまった青い瞳は、もう彼の心の中から消えていた。
~二十七日目──昔の思い出~
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- 2007/11/27(火) 05:29:32|
- 偽島
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